勝村たちを襲った・発疹チフスの猛威は・約2カ月余りの間に・全員の9割5分を発病させて・文字通りの・生き地獄を・現出したのである」タグアーカイブ

迎えにきたジープ p.108-109 キリコフ大尉が訊問

迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.
迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.

下りきらない熱に浮かされたような推理が、次々と勝村の疲れ切った頭を駈けめぐっていっ

た。

『ねずみ、ねずみだ!』

全く突然、勝村は大声で叫び出してしまった。あとは息が続かず低く口の中で呟いた。

『発疹チフスの次はペストに違いない……』

そのまま彼は再び昏睡してしまった。

チェレムホーボ収容所が発疹チフスの脅威にさらされていた、ちょうどそのころのこと。シベリヤ本線を東へ東へと、数千キロも離れたハバロフスクの街。内務省(エヌカー)ハバロフスク地方管理局という厳めしい建物の一室では、勤務員のキリコフ大尉が一人の日本人を訊問していた。

モスクワの東洋大学は日本語科出身の通訳官ゲリヤノフが、なめらかな日本語で通訳し、書記が記録する。もちろんキリコフ大尉も日本語は得意だったが、公式の場合だから宣誓署名した通訳官が立会うのだ。

日本人は元関東軍第七三一部隊教育部長、東軍医中佐だった。第七三一部隊というのは例の石井部隊である。

『部隊で行なわれていた実験について述べてもらいたい』

『一九四五年一月、私は安達駅の特設実験場に赴きました。ここで私は第二部長と本多研究員

の指導下に、ガス壞疽による感染実験が如何に行われていたかを見ました……』

そしてまた、それと同じころハルビンの旧陸軍第二病院の一室では、大谷小次郎元軍医少将の執刀のもとに、腺ペスト患者の生体解剖が行なわれていた。

大谷少将の背後には、青肩章の正服の上にペスト予防衣をつけた、秘密警察(エヌカーベーデー)の将校が二人立っている。それから数人のソ連人助手の中に女性が一人。

彼女は三十八度線以北の朝鮮を占領すると同時に、北鮮の首都となった平壌に秘密細菌試験所を開設した人だった。彼女はもとは裏海の中の一小島にあった、エフバトリヤ第二号実験所のメムバーだったが、クリミヤ半島のエフバトリヤ市に出張中、実験所の細菌学者たちが、自分たちの培養した腺ペストにかかって全滅し、一人厄逃れをしたという腺ペストの権威でもあった。

第二病院長だった大谷少将は、病院の研究室が石井部隊と関連を持っていたことから、このチェレグラワー女史の協力者となることを承知せざるを得なかった。実験台に上らされているのは日本人である。

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

迎えにきたジープ p.110-111 生き残りだけの捕虜名簿

迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.
迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

シベリヤにも遅い春がやってきた。四月ともなれば、丘から丘へと連なる大地のうねりにも青味がかかって、美しい林のはずれから、澄んだ小川のほとりまでも、茎の短いタンポポが、鮮やかな黄色の絨毯をひろげたように咲き乱れる。

だが、春を迎えた収容所の人員は、約三割も減って二千七、八百名しかいなかった。その行方はあの可愛らしいタンポポにでも、たずねるよりは仕方があるまい。そして、生き残った人たちに対してだけ、やっと捕虜名簿のカードが作られはじめていた。

二 マイヨール・キリコフの着任

それから四年が過ぎて、昭和二十五年の春、信濃、高砂、両引揚船が舞鶴に入港して、ソ連地区の引揚は打ち切られた。

都心には新しい高層ビルが、競争のようにどんどん建ち聳えている。そのどれもが自動車でいえばフォードのように明るいが、幾分安っぽい感じのものだ。大通りには欧洲車は影をひそめて、赤、青、黄と派手な米国製高級車が洪水のように流れている。

盛り場にはクラブとかキャバレーとかいう社交場が妍を竸い、ネオンが妖しくまたたいている。ショーウィンドウにはスマートな商品が豊富に飾られている。そしてその商品の殆どが、衣類も化粧品も菓子までが米国製だ。

舗道をぞろぞろ織りなすように行き交う人たちは誰もが美しく装っている。人妻か娘か判ら

ない婦人たちは、最新流行の服だ。そして職業の全く判らないような男たち。

日本の庶民生活とは何の関係もないこのような事柄が、戦後数年間のうち東京にみちあふれてきた。

だが、身近かな喫茶店やパチンコ屋でさえ、その資本主や経営者には、難しい漢字の三字名や、片仮名の外国人たちが並んでいる。外国人の賭博場ができ、月島の埋立地に上海や香港のような華僑の街をつくろうという計画までが樹てられる。

密輸と密入国。植民地気質の出稼ぎ外人たちは大きな悪事を働らいては飛行機で逃げ出す。大陸や外国から引揚げてきた鮮、華、露などの混血児。赤系に変った白系露人、無国籍のエミグラント、もはや東京は八百万都民と何のかかわりもなく、怪しげな国際都市として、その性格までも変貌していた。

高級住宅地である麻布の高台を滑るように走ってゆく外国製車が一台。ナムバープレートには「SPACJ—35」とあるから、ソ連代表部の車だ。見馴れない型だからモロトフに違いない。ZIM式六基筒九十五馬力。モロトフ工場製でソ連が誇る新車ジムだ。

前に二人、後に二人と、いずれも座席の中央をあけて四人のソ連人が乗っている。車はグングンとスピードを出して虎の門から桜田門へと向った。警視庁のクスんだ建物を左にみて右へ

大廻り、祝田橋の信号にかかってギュッと停った。たちまち七、八台の車が後につかえる。