二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固
辞して私は出ていった。
その笑顔から察するに、多分私は、肌を合わせたに違いなかった——今に至るまでも、私が経験した〈最高年齢〉記録を、この新宿のリンタクが打ち樹ててくれたのだった。
ロマンの原点二丁目
むかしの青線に遊歩道
いまの靖国通り、新宿アド・ホックビルの真向かいから明治通りの新田裏(なんと古い地名であろうか。東京屈指の盛り場である新宿に、こんな〝新田〟=しんでん=裏という名前が残っているのだ)にいたる間、まるで武蔵野を想わせる散歩道が数百メートルもある。
これは、東大久保から抜弁天経由で飯田橋にいたる旧都電の線路跡(軌道敷)だ。
新宿の表通りから都電が消え、次いで、このルートも消えた。新田裏から抜弁天にいたる間は裏通りを走っていたので、一方通行の道路となったが、両側の家は、みな背中をさらけ出すハメになったが、それなりに改造されて、それほどの醜さは表われていない。
こちらは、しもた家だからまだ良い。しかし、この散歩道に変貌した部分は、両側とも飲食店
しかも、片側はいわゆる青線区域だったから、なんとも汚らしい。
相当な経費をかけたのだろうが、この跡地を払い下げたりせずに、樹をたくさん植えこんで、両側の汚い部分に目隠しをして散歩道にしたのは、グッド・アイデアであった。
雨の降る日など、石ダタミの水たまりに映える、傘の女性の姿などは、夜のわい雑さを忘れさせる風情がある。
この〈青線区域〉というのは旧遊廓の〈赤線〉に対する言葉で、警察の取り締まり上から、赤青の色鉛筆で、地図にしるしをつけたことから出た、といわれている。
三十二年ごろの、売春防止法施行と同時に消えた、それこそオールドファンには懐かしい言葉である。
某月某夜、作家の川内康範氏を囲んで、数人で飲んでいた時、談たまたま、むかしの新宿遊廓に及んだ。いわゆる二丁目、である。
「むかしの新宿、といえば、二丁目にステキな子がいてネ……」
出版社の社長であるS氏が、身体を乗り出して、ホステスたちの顔を見まわしながら、話しはじめた。
大正二ケタたちは
「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と
いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」