■□■“ひとのせい”にするな!■□■第47回■□■ 平成12年8月5日
かねてからの文章でお判りのように、私は“適者生存説”を主張している。それは、79年に及ぶ私の人生、ことに丸2年の軍隊生活と、同じ丸2年のシベリア捕虜の体験を中心に据えた“私の哲学”である。
軍隊での生死の分かれ目には“運隊”と呼ばれるように、自分の努力だけでは如何ともし難い運命ともいうべきものが、大きく左右する。しかし、あくまで“適者生存”であることには変わりはない。
シベリア捕虜もまた、“運隊”と同じだけれども、酷寒や栄養失調、発疹チフス、事故といった客観状況の中で、今こうして生き残った人たちを見渡してみると、死ぬべき男が死に、生きるべき人が生きている。
先日来、新聞紙面やテレビ画面でしきりと“問題化”している、中三生の自宅での首吊り事件で、私は憤慨にたえない。ナゼかといえば、学校でイジメがあり、それを家庭に連絡しなかった「学校の責任」ばかりが、取り上げられているからである。
両親に祖父を含めた家族、家庭の責任はどこに行ってしまったのか。自分たちの無責任が、第一番に問題にされねばならないのに、彼らは、学校、学校と、“ひとのせい”にしようとする。こんな家庭だからこそ、この少年は、自宅で自殺したのである。
私も少年の頃、死を美化する文学作品などの影響から、自殺を考えたことが、何度もあった。早熟だったせいか、小学校高学年から、中学にかけて、そんなことを詩や散文に書き散らしている。だが、この少年と違うところは、「HELP(ヘルプ)」などというメモは書いていない。自分自身の勉強と努力とで、死の誘惑から脱出したのだった。
誤解を恐れずにいうならば、この両親や祖父は、この少年に金属バットで襲われなかったことが、不幸中の幸いであったというべきであろう。テレビ画面で見た、少年の立派な祭壇に、私は違和感を覚えた。
少年を袋叩きにした8人の同級生が、先生に連れられて、拝みにきた——母親はこの8人が、肘で先を譲りあう(?)動作や、ニヤついた顔などに、さらに怒りを訴えたりするが、それを、そのまま報ずるテレビカメラや、新聞記者たちの在り方は私はオカシイと思う。
最近の紙面や画面には、つねに“ひとのせい”が主張されている。マスコミは、もっと事の本質を見極めて、事件を取り上げるべきである。このマスコミのデスクたちも、すべて“ひとのせい”にする、無責任世代なのであろう。
テレビ朝日のダイオキシン騒動の公判もはじまったようである。久米宏たちは、これをもって“ひとのせい”にしないように。埼玉県のO157騒ぎも、保健所の無責任が原因と判明した。さて、埼玉県は、被害賠償に対してどう対処するか。100億円以上と伝えられる被害に、県民の税金を支出できるだろうか。“ひとのせい”にできないケースだけに、土屋知事がどうするか、みものである。
“自分のせい”で、昨年の玄倉川13人水死の事件があった。だから私は“適者生存説”をとるのである。思春期の少年の、心の動きを読み取る努力を怠った家族は、決して“悲劇の主人公”ではない。
音羽の幼稚園児殺害の母親の公判で、その夫はこう述べた。「声は聞いていたが、心の声を聞こうとしなかった、私の責任です」と。この夫は、残された子供とともに、これからイバラの人生を歩まねばならない。 平成12年8月5日