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シベリヤ印象記(7) 偽装して地下潜入せよ

シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
画像は三田和夫65歳(右から2人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
画像は三田和夫65歳(右から2人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)

シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年5月27日

それから1カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。“モスクワからきた中佐”との初対面のあとである。話は前後するが、それまでの呼び出しの様子を思い出して書きとめておこう。

当時、シベリア捕虜の政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変わりつつある時だった。

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。

この時は、もうひとり通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチブであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、“偽装”して地下潜入せよ、ということになるのではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に“偽装”を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも“幻のヴェール”が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ3回目が冒頭に書いた2月8日の夜のことである。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウン、いますぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛布外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

——何かが始まるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

——まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駆けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

「モージノ」(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良く暖められた部屋に一歩踏み込むと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。

ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私はそんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられた靴のカカトが、カッと鳴ったほどの、厳格な敬礼になっていた。 平成12年5月27日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな!

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)
編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)

■□■“ひとのせい”にするな!■□■第47回■□■ 平成12年8月5日

かねてからの文章でお判りのように、私は“適者生存説”を主張している。それは、79年に及ぶ私の人生、ことに丸2年の軍隊生活と、同じ丸2年のシベリア捕虜の体験を中心に据えた“私の哲学”である。

軍隊での生死の分かれ目には“運隊”と呼ばれるように、自分の努力だけでは如何ともし難い運命ともいうべきものが、大きく左右する。しかし、あくまで“適者生存”であることには変わりはない。

シベリア捕虜もまた、“運隊”と同じだけれども、酷寒や栄養失調、発疹チフス、事故といった客観状況の中で、今こうして生き残った人たちを見渡してみると、死ぬべき男が死に、生きるべき人が生きている。

先日来、新聞紙面やテレビ画面でしきりと“問題化”している、中三生の自宅での首吊り事件で、私は憤慨にたえない。ナゼかといえば、学校でイジメがあり、それを家庭に連絡しなかった「学校の責任」ばかりが、取り上げられているからである。

両親に祖父を含めた家族、家庭の責任はどこに行ってしまったのか。自分たちの無責任が、第一番に問題にされねばならないのに、彼らは、学校、学校と、“ひとのせい”にしようとする。こんな家庭だからこそ、この少年は、自宅で自殺したのである。

私も少年の頃、死を美化する文学作品などの影響から、自殺を考えたことが、何度もあった。早熟だったせいか、小学校高学年から、中学にかけて、そんなことを詩や散文に書き散らしている。だが、この少年と違うところは、「HELP(ヘルプ)」などというメモは書いていない。自分自身の勉強と努力とで、死の誘惑から脱出したのだった。

誤解を恐れずにいうならば、この両親や祖父は、この少年に金属バットで襲われなかったことが、不幸中の幸いであったというべきであろう。テレビ画面で見た、少年の立派な祭壇に、私は違和感を覚えた。

少年を袋叩きにした8人の同級生が、先生に連れられて、拝みにきた——母親はこの8人が、肘で先を譲りあう(?)動作や、ニヤついた顔などに、さらに怒りを訴えたりするが、それを、そのまま報ずるテレビカメラや、新聞記者たちの在り方は私はオカシイと思う。

最近の紙面や画面には、つねに“ひとのせい”が主張されている。マスコミは、もっと事の本質を見極めて、事件を取り上げるべきである。このマスコミのデスクたちも、すべて“ひとのせい”にする、無責任世代なのであろう。

テレビ朝日のダイオキシン騒動の公判もはじまったようである。久米宏たちは、これをもって“ひとのせい”にしないように。埼玉県のO157騒ぎも、保健所の無責任が原因と判明した。さて、埼玉県は、被害賠償に対してどう対処するか。100億円以上と伝えられる被害に、県民の税金を支出できるだろうか。“ひとのせい”にできないケースだけに、土屋知事がどうするか、みものである。

“自分のせい”で、昨年の玄倉川13人水死の事件があった。だから私は“適者生存説”をとるのである。思春期の少年の、心の動きを読み取る努力を怠った家族は、決して“悲劇の主人公”ではない。

音羽の幼稚園児殺害の母親の公判で、その夫はこう述べた。「声は聞いていたが、心の声を聞こうとしなかった、私の責任です」と。この夫は、残された子供とともに、これからイバラの人生を歩まねばならない。 平成12年8月5日