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赤い広場ー霞ヶ関 p.170-171 ソ連代表部から日共へ45万ドル

赤い広場ー霞ヶ関 p.170-171 Rastvorov confessed that $ 450,000 was handed from the Soviet Union to the Japanese Communist Party.
赤い広場ー霞ヶ関 p.170-171 Rastvorov confessed that $ 450,000 was handed from the Soviet Union to the Japanese Communist Party.

日ソ交渉のかげに蠢くもの

一 小坂質問と重光外相のウソ

日ソ交渉がロンドンで開かれてから、早くも一ヶ月余を経過した。国民の誰もが、ひとしく、その円満な妥結を希望し、事実上の「完全独立」を期待していることは、いうまでもあるまい。だが、である。われわれは、もう少し冷静に、事の真相と成行とを見究めねばならない。

われわれは、あまりにも真実を知らされていない。すべての「真実」を知り得てのち、われわれは、「現象」に対する冷静な「判断」を下せるのではあるまいか。

「真実」を知らされていないという良い例がある。「秘められた山本調書の抜き書」をもう一頁、結論であるこの章に追加させてもらおう。読者は三十年六月六日付の朝日新聞夕刊を、いま一度ひろげてほしい。一面に小坂善太郎氏(自)の、予算委員会総括質問のさいの、日ソ交渉に関する質問の記事が載っている。

「日共へ一億六千万円、ラストヴォロフ氏の自供」という、三段見出しで、ラ氏が日共政治資

金として二回にわたり合計四十五万ドルを渡したことが質問され、警察庁担当の大麻国務相と斎藤警察庁長官とが、肯定の答弁を行っている。

話は少し横道にそれるが、この四十五万ドルの資金のことにふれておこう。

第一回は二十六年春、その年の四月の地方選挙費用として、ソ連代表部から、日共の地下財政責任者に手交された。

ラ氏の自供によると、その日、彼が車を運転して、上官のシバエフ大佐、コテリニコフ領事を客席にのせて、麻布の高台を走り出た。尾行をまくため、都内をアチコチと走り廻ったあげく、某所で待っていた一人の日本人を、素早く同乗させた。

男はシバエフ大佐とは顔見知りらしく、軽くうなずき合い、ロシヤ語で二言、三言話し合った。車はスピードを増した。ラ氏はときどきバック・ミラーで、車内の様子をみていた。猛スピードで夜の東京を突走る、ソ連製高級車ジムの中で、沈黙のうちに三十万ドルの札束が、男のボストン・バッグの中に詰めかえられてゆく。

日共の手に渡ってから、円と換えやすいように、このグリーン・ビル(米本国ドル)は、すべて五ドル、十ドルの小額紙幣である。パリッとしたのもあれば、ヨレヨレのもある。香港あたりでかき集めたものらしい。

赤い広場ー霞ヶ関 p.174-175 全権随員から都倉栄二を外す

赤い広場ー霞ヶ関 p.174-175 After the question of Zentaro Kosaka, Eiji Tokura (Rastvorov's spy?) was exempted from the delegation with full authority of negotiations.
赤い広場ー霞ヶ関 p.174-175 After the question of Zentaro Kosaka, Eiji Tokura (Rastvorov’s spy?) was exempted from the delegation with full authority of negotiations.

この人物は、いろいろの意味で、〝色のついた人〟であるから、外相はウソをついたのである。重光外相は、国会で議員の質問に対して、ヌケヌケとすぐ尻尾のでるウソをついたのだった。

 このウソは、数時間もたたないうちに、その尻尾を出した。小坂質問が終ったのが、六日のおひる少しすぎで、その日の午後おそくには、外務次官をはじめ、各局長、欧州参事官らの、外務首脳部による日ソ交渉最高会議が開かれ、小坂質問の内容が検討された。そして、一つの人事異動が決定され、その命令は同日直ちにロンドンに打電された。

 都下の日刊紙では、読売にしか出ていなかった、小さな記事がある。六月十日付の同紙の一面、見落してしまいそうな記事である。

全権委随員に大鷹氏

日ソ交渉の全権委員随員都倉栄二氏の、西独ボン日本大使館転任にともない、政府は九日の次官会議で、ロンドン大使館外交官補大鷹正氏を、後任にあてることに決めた。

 全権随員を免ぜられた都倉氏こそ、さきに述べた「山本調書」に登場している「都倉栄二」その人である。都倉氏が小坂質問の日に随員を免ぜられた、ということになると、話は極めて奇妙なものになってくる。

 この人事は、一体どういうことなのだろうか。外相の説明を、もう一度きいてみたいものである。

 門脇外務次官の記者会見のさいの答は『外務省としては当初から予定していた人事だった』といい、田中情報文化局長は『そんな妙な意味の更迭ではない。そうだったら、なにも欧州な

んかに改めて派遣せず、直ちに帰国命令を出しているよ』と、こともなげに一笑に付している(七月十日付週刊読売)のだが、果してこの言葉を、そのまま信じられるだろうか。

ソ連の西独への働きかけが、今日昨日始まったからといって、ソ連専門家の都倉氏を全権団から抜いて、あわててボンに派遣する。外務当局はそんな後手後手外交で恥しくないのだろうか。ボンには、すでに村井氏とケンカして、これも〝当初から予定〟していた人事で、外務省きってのソ連通の、曾野参事官がいっているではないか。全権団員都倉氏を、今更あわてて、小坂質問の日に異動することはあるまい。

また、田中局長の『そうだったら、直ちに帰国命令を出す』とすると、そんな〝色のついた人〟を全権団員に加えた責任は、一体誰がとるべきなのか。欧米局長や欧州参事官、次官から外相まで、ズラリと枕を並べて引責辞職どころか、下手したら鳩山内閣がつぶれるような大問題だからこそ『直ちに帰国命令を出さず』に、もっともらしく理由をつけて、ボンに転出させたのではないか。あまり見えすいたウソは止めてもらいたい。

小坂氏だって、そんな大問題だからこそ、

あの質問は、思いつきでやったのではない。私の知人筋に当る人々から、今度の日ソ交渉全権団の中に、左翼分子がふくまれているという話が出て、私も容易ならざることだと思っていた。それで重光 外相に、その事実があるかどうか、たしかめてみたのだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.176-177 ソ連のスパイ技術はずっと高度である

赤い広場ー霞ヶ関 p.176-177 Rastvorov has repeatedly approached Eiji Tokura to work as a spy. But he refused it, Rastvorov said.
赤い広場ー霞ヶ関 p.176-177 Rastvorov has repeatedly approached Eiji Tokura to work as a spy. But he refused it, Rastvorov said.

あの質問は、思いつきでやったのではない。私の知人筋に当る人々から、今度の日ソ交渉全権団の中に、左翼分子がふくまれているという話が出て、私も容易ならざることだと思っていた。それで重光

外相に、その事実があるかどうか、たしかめてみたのだ。

 むろん、国会という場での質問であるからには、一笑にふすべきデマ的な噂や、風説にもとづいたものではない。と同時に、ラ事件にも言及してきいてみたのは、随員のなかにいるといわれる分子がラ事件と何らかの関係があるものと考えたからだ。

 しかし、幸にも外務当局は、疑わしい人物を避けたようだから、私としても、これ以上は追及しない。私の質問が結果的に、国家のために役立ったものと思うから……(七月十日付週刊読売)

と、語っているではないか。

 ソ連スパイは、もちろん党員の鉄の規律と、厳格な教育訓練ののちに一人前になる。ところが、アメリカは雑多な人種の寄合世帯であり、家系の深さなどというものがない。従って誰もが、何処の馬の骨とも、牛の骨とも分らない人間の集りである。金以外に信頼の根拠となる何ものもない。

 そこでアメリカのスパイは、敵スパイを金で逆用することが、一番無難であるとして、敵のスパイを寝返らせて、味方につけるスパイ逆用工作技術が発達した。

 米ソ両国の国のなりたちと、歴史とから考えても、ソ連のスパイ技術の方が、アメリカよりずっと、高度であることは当然である。

技術が下手だから、やり方の荒いのは歯医者と同じである。アメリカが占領中に日本人を苦しめたのはそれで、こんな強引さがすぐ眼に見えるだけに、反米感情をあふるという、悪結果となって現れてくる。

だが、ソ連の手口は違う。陰惨である。執拗である。残忍である。焦らず、あわてず、ガンジがらめにして目的へと追い込んでゆく。食肉用の仔豚を育てて、その成長を眺めながら、最後に屠場に送りこむ手口である。

丸十年前、ソ連軍は中立条約を踏みにじって満ソ国境を越えた。怒濤のようなソ軍の進撃の前には、在ハルビン日本領事館などは浪に呑まれる小舟のようなものである。昭和十一年東京の外語卒業の通訳生、都倉栄二氏もまた軍事俘虜として、欧露エラブカの収容所に送られたのは無理もないことである。

ラストヴォロフ氏はその自供の中で、係官に対して、この都倉氏の名前をあげた。しかし、さきに述べた通り彼の場合は、ラ自供の額面通りに受取るならば、彼にとって極めて有利であった。つまり、ラ氏はシベリヤでの「幻兵団」誓約に従って、都倉氏に東京での約束を果してもらうべく、しばしば彼を訪れ、誓約の実行を迫ったのであった。誘惑もしようとしたのだったが、彼はどうしてもスパイとして働らくことを肯じなかった、という自供内容なのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 「仔豚は育ってきた!」

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”
赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”

ソ連の手口である。ラ氏の失綜は形式的には、アメリカの拉致である。だが、真相は謀略的亡命である。わざと拉致されたのだ。そして敵の手中に入ってから、味方の意図するような自

供をする。ひったくりという、アメリカの手口に、つけこんだのである。

諜報謀略の原則は、七割与えて十割取る、肉を切らせて骨を切る、と同じである。「宗谷岬に漂うソ連兵の死体」で述べた、死体謀略の逆手ともいうべき、〝生体謀略〟である。つまり死体の携行書類の代りに、生きて口でシャベるのである。しかも、十年もたってから、ラ氏が米国内で自由の身となれば、敵中に一拠点を設けられるということだ。

『ウーム、それならば一切の疑問が解決する』

アナリストは、この著想に思わず唸りながら、急いで日ソ双方の全権団名簿を取出してみつめた。

交渉地ロンドンの、駐英ソ連大使を兼ねるソ連全権はマリク氏である。マリク氏は終戦時の駐日大使で、スターリン調停を依頼して煮湯を飲ませた男である。当時の外相は重光現外相、当時の外務次官は松本全権。

ソ連随員のゲオルギー・パブリチェフ氏は、終戦時のハルビン総領事で、その謀略性には流石の関東軍特務機関も、手をあげさせられた男である。しかも、戦後は代表部員でずっと日本にいた。ソ連随員で通訳のアデルハエフ氏は、政治上級中尉で、戦前から二十二年まで代表部に勤務し、二十九年と三十年の二度にわたって、エカフェ代表として日本を訪れている。

そしてまた、日本随員の都倉氏は、パブリチェフ氏と同じように、終戦まではハルビン勤務、しかも、戦後は同じ東京にいた。

――何という、奇縁に連らなる人々ばかりだろうか!

――そして、そこへ、清川特派員がモスクワからロンドンへ来ていたとしたら……?

『仔豚は育ってきた!』

こればかりは氏名を明かにできないのだが、この〝当局のアナリスト〟は、こう叫んで立上っていた。

斎藤警察庁長官が、小坂質問に答えて『ラ事件の関係日本人は、六十数名いる』といった。また二十九年八月二十日付の毎日新聞によると、当時の小原法相は『近く第二次発表を行い、関係民間人二十数名の氏名を明らかにする』と、記者会見で語っているが、何故かこの発表は行われなかった。

もちろん、そのかげにはいろいろな政治的理由があろうが、小原法相のいう「二十数名」は丸十ヶ月後には斎藤長官のいう「六十数名」と、三倍にハネ上っている。依然として捜査が続けられていた証拠である。

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。