戦争とはなんだ?」タグアーカイブ

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1)

編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)
編集長ひとり語り第49回 戦争とはなんだ?(1) 平成12年(2000)8月26日 画像は三田和夫23歳(前列左から2人目・軍刀・メガネ 三田小隊・黄河鉄橋防空隊1945.02~)

■□■戦争とはなんだ?(1)■□■第49回■□■ 平成12年8月26日

敗戦記念日の8月15日をはさんで、マスコミは、その紙面(放映)で、投書を加えて「これが戦争だ」と、しきりにアジテーションをあおっていた。虐殺という言葉も、しきりに登場していたが、その言葉の意味をも確かめず、用いられていた。

例えば、参戦各国ともに見られるのだが、捕虜を並べて機銃で撃ち殺す——これは虐殺なのか。戦闘中に、銃砲弾で殺される。これまた虐殺なのだろうか。米軍の日本本土爆撃で、非戦闘員の女、子供、老人が死ぬのだが、虐殺なのだろうか。原爆はどうか——。

私は、あの雨の神宮外苑の学徒出陣式の1カ月前、昭和18年11月1日に入隊した。9月卒業で10月1日に読売入社。正力松太郎の日の丸を頂いて千葉県佐倉に入隊。しかし学徒根こそぎ動員が12月1日に入隊してくるので、中国に送られ、河南省黄河のほとりに駐屯したのち、保定の予備士官学校へ。4月入隊。その前に、原隊は南方転進で大半は輸送船ごと海底に沈んだと聞く。幹部候補生だけ残されたので、助かった次第だ。19年12月、卒業して見習士官となり、黄河の畔に戻った。

20年2月、重機関銃3丁を率いて、黄河鉄橋防空隊の高射砲大隊に配属され、鉄橋爆撃の米空軍との戦いとなった。B24爆撃機が一車線の細い鉄橋を爆撃するが、なかなか命中しない。泥深い河に落ち、橋脚をゆるがす。と同時に、鉄橋上の我が陣地に掃射を加えてくる。瞬時に通りすぎる機影めがけて応射する。射たれて射ち返す。殺されて殺し返す。これが「戦闘」である。

約1時間、爆弾を使い果たしたB24編隊は奥地の老河口飛行場に去る。陣地の土のうには弾痕があるが、部下の点呼。死傷なし。その瞬間に、スポーツの試合が終わったあとのような、爽快感を覚える。1日1回、きょうの定期便は終わったのだ。翌日から2、3日はP51機が高々度から、鉄橋の被害を調べにくる。そしてまた空襲である。5月までの4カ月間にB24一機を落とした。

その間に、北支派遣軍は、米空軍の根拠地老河口作戦を展開。私が原隊復帰をしてみると、中隊長は先任小隊長を連れて、その作戦に出ていた。米軍の本土上陸に備えて、四日市付近に帰国するハズだったが、満ソ国境の部隊を帰し、私たちはその後釜で満ソ国境白城子に部隊移駐が命じられた。大隊の集結が、作戦部隊の撤収を待っていて遅れ、8月13日夜、新京(長春)に到着し、9日のソ軍侵攻で、師団主力と分かれ、首都防衛軍に編入され、8月15日を迎える。

「…8月15日未明、有力なるソ軍戦車集団が首都新京に侵攻…。一兵能く一輌を撃破…」と、手榴弾5、6個を縛り、それを抱いての突撃という命令が出たのが、14日の夜更け。タコ壺を掘り、身を潜めて夜明けを待ったがキャタピラの音がしない。この時はさすがに「オレの人生も終わりだナ」と感じていた。が、正午に重大放送があるという予告で、15日の朝が快晴の太陽を輝かせていた。(この時のことは稿を改めて書きたい)

8月16日夜、ソ軍の先遣隊が市内に入ってきた。治安維持のため、市内巡察に一個分隊を連れて歩いていた私は、前方からくる部隊がソ軍と気付いて、全身總毛だったのを覚えている。だが、双方ともにオッカナビックリで、広い道路の両側をスレ違った。もしも、どちらかが発砲していたら、新京の無血占領はなかっただろう。

そして、20日から、掠奪、暴行、強姦がはじまった。強姦のあとは、必ず被害者を殺すのである。口封じであろう。

私が見たもの、聞いたもの、経験したもののすべては、みな「戦争」の小さな小さな一断片にすぎないのである。他の人のそれも同じである。それが、「これこそ戦争だ」と、力(リキ)み返って登場してくる。(続く) 平成12年8月26日

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2)

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)
編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)

■□■戦争とはなんだ?(2)■□■第50回■□■ 平成12年9月2日

8月下旬になって、ソ軍の司令部も進駐してきたようで、新京は首都だということで、日本軍は南の公主嶺に撤退するということになった。と、在満の日本軍の将軍たち(少将、中将)は、ソ軍機で輸送されることになり、公主嶺の飛行場に集められた。

その時、私は将校伝令として、大隊長の命令で、飛行場にいた北支那派遣軍第十二軍第百十七師団長(私の部隊長である)の、鈴木啓久中将に会いに行った。何かを届けたのか、何を伝えに行ったのか、その部分の記憶がまるでない。

陸軍中将で、師団長の閣下の様子を見て、新品少尉の私は、愕然としたのだけは、鮮明に覚えている。つまり、ソ軍の捕虜となり、ソ軍機でどこかに連れていかれることへの恐怖にオロオロしている男をみたのである。

——これがオレたちの師団長なのか!

階級制の軍隊では、将軍などと接することは、下っ端の兵にはほとんどない。私自身も保定の士官学校に入った時と卒業した時の2回だけ、はるかかなたに学校長の少将を“望見”しただけ。鈴木師団長とは対で会い、会話を交わした、初の体験であった…。敗戦直後のことではあったが、日本陸軍の中央にいる将官の、あまりにも程度が低いのに驚き、その反動で、将校伝令の内容を忘れてしまったのだ、と思っている。

なぜこんなことを、事細かに書くのかというと、後日譚があるのだ。1、2年前のこと、「フォト・ジャーナリスト」という肩書きの人物が、東京新聞に記事を提供して、そこに鈴木啓久元中将が登場していたのだ。ソ連の収容所で調べを受けたのち、中国戦犯として満州の収容所に移され、何十年間かの後に、釈放、帰国し、その収容所(監獄)時代の自供調書の内容が記事になった。

私の同期生(予備士官)にも、シベリアから中国に引き渡され、昭和33年ごろ帰国した男がいる。バイカル湖畔の炭坑町チェレムホーボの収容所も一緒だったが、私が作業隊で出ていたのに、彼は大隊副官として作業割りやデスクワークをしていた。口下手で反応の遅い方だったが、それが災いして戦犯として中国渡しになった。

その戦犯の内容は、対共産八路軍の討伐作戦の時、壊れた家の材木で、暖を取った(彼の小隊員が)のが、放火、焼き尽くし作戦の責任者とされたらしい。そのような調書が取られる時、彼は口下手で反論もしなかったので、戦犯として12、3年も監獄暮らしをした。だが、帰国後に、彼の名誉回復があり、国慶節に招待されて、天安門上に立ったという。

そういう話を承知していたので、鈴木元中将が、監獄でどのような調書を取られたのか(しかも、公主嶺飛行場での狼狽ぶりに見られる小心者)、私には想像がつく。つまり、中国側のいいなりである。その内容たるや、従軍慰安婦の強制連行を命令したとか、中国人民に対する残虐行為を命令したなど、軍の実情を知るものにとっては、まさに噴飯モノなのだ。北支軍下の慰安婦は、すべて朝鮮人と日本人である(実体験から)。それがどうして“強制連行”か。第一、師団長が軍の慰安婦管理の命令を出す立場か。バカ気ている。記事提供者も新聞デスクも無知!

このフォト・ジャーナリストには、会合で出会ったので、それを指摘したら、不愉快気な表情で、なにもいわずいってしまった。私はこのような、ジャーナリストとしての訓練もなく、見識もなく、時流に乗るだけの連中の蠢動を厳しく阻止したい。

韓国人の元慰安婦が、自分の被害体験を訴えるが、それが事実かどうかの見極めもなく、媒体は大きく取り上げる。中国のどこで醜業を強いられたのか、地名と時期を明らかにすれば、まだ、その土地にいた日本軍の戦友会があるから、すぐ調べられる。

中国では、軍が朝鮮人と日本人以外の娼婦を認めなかった。それは、兵隊たちの部隊名や作戦名が、中国人に漏れないよう、中国語の話せない女たちを選んだ、防衛上の配慮だった。そして私の知る限り、彼女らは朝鮮人の売春業者に連れて来られ、管理されていた。軍は、衛生管理の面で関与していた。性病予防である。

さて、丸2年のシベリア捕虜から帰国して読売社会部記者に復職し、数カ月で戦後の日本にも馴れてきたころ、ナント、将官級の連中が、まだ生きていることを知って、ビックリしたものだった。大佐、中佐級の参謀たちとともに、ほとんどが自決したもの、と思いこんでいたからだった。

「戦争とはなんだ?」というテーマで、答えられるのは、司令官たちとその参謀たちだけである。いま、多くの体験談や目撃談が出ているが、それは、「戦闘」の名場面だけで、残虐も、勇壮も、「戦争」という大テーマのそれではない。陸軍士官学校、海軍兵学校出身の“職業軍人”たちは、いうなれば“軍事官僚”で、彼らが兵士たちの生命を左右し、国家を滅亡させたのである。

いま、警察官僚のキャリアたちの不祥事が続発しているが、私は、軍事官僚と彼らとをオーバーラップさせてみている。エリート意識のおごりである。日本国と日本国家の、50年前の敗戦の徹底追及がなかったため、ふたたび、同じ道を歩んでいる。国家は衰退から滅亡へと進んでいるようだ。

その第一の戦犯はマスコミである。その場その場の現象に飛びつくだけで、「社会の木鐸」という言葉は死語になってしまった。

その著書で、相手の名前を出して、中国人を袋詰めにして池に投げ込み殺した、といった男は、中国各地を講演して回り、名士気取りである。名前を出された男は、裁判に訴えて、現実には袋詰めできないと、勝訴したが、著者は平気の平左だ。鈴木元中将のウソを宣伝するヤカラも同じである。(続く) 平成12年9月2日

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3)

編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)
編集長ひとり語り第51回 戦争とはなんだ?(3) 平成12年(2000)9月9日 画像は三田和夫23歳(前列右から2人目タスキ掛け 島崎隊1945年)

■□■戦争とはなんだ?(3)■□■第51回■□■ 平成12年9月9日

8月19日、敗戦から4日目。私たち在新京(長春)の日本軍部隊は、首都防衛司令部の命令による行軍序列で、南方の公主嶺に向けて沈黙の行進をつづけていた。日ソ両軍の交渉で、首都新京に日本軍がいると、不測の事態の可能性があるというので、南の公主嶺市に撤退することになったのだ。ここは軍都ともいうべき街で、兵舎など軍部の施設が数多くあったからだ。

重機関銃、大隊砲などの重装備は、武装解除されたが、軽機関銃、小銃などは、自衛のためまだ持っていた。満人の暴徒や満州国軍の叛乱などが、まだ続いていた。祖国日本の敗戦というショックに、自分たちのこれからの運命を思えば、葬列のような静けさにみちていた。

と、行程の半ばぐらいの時だったろうか。前方で激しい銃声が響いてきた。何が起きたのか、隊列はピタリと止まった。やがて、逓伝で「先頭部隊が外蒙兵に襲撃され、交戦中!」と、報告が入ってきた。私たちはそれをまた、後続の部隊へと叫んで伝える。

私たちは、第二〇五大隊。第一中隊から第五中隊までの小銃隊、それに、重機関銃、大隊砲の二個中隊、約一千四、五百名の兵力が並んでいた。銃声はいよいよ激しい。

「中隊長殿!」と、第五中隊第二小隊長の私は、前方の中隊指揮班に駆けつけた。「友軍が襲撃されているのです。救援に出かけましょう!」説明し損ねたが、黄河の鉄橋防衛の時には、私は重機関銃隊にいたのだが、原隊復帰の時、将校の数が足りない第五中隊に転属していた。

群馬県安中市出身で、中年の島崎正己中尉は、血気にはやる私をジロリと見るや、一喝した。「バカモン! 戦争は終わったのだ! これ以上、私の部下を死なすことはできん!」

ちょうどその時、後方から逓伝が聞こえてきた。「最後尾の戦車隊を前進させる。各隊その位置を動くな!」という。島崎中隊長は「みろ、戦車隊が出てから状況判断する!」と、不満そうに立っていた私を諭した…。やがて、キャタピラの轟音も力強く、十数輌の戦車が前進してきた。駄散兵(ダサンペイ・小銃隊の兵隊のこと)の私たちには、戦車隊の勇姿が、なんとも頼もしかったことを今でもハッキリと覚えている。

2、3時間もその位置にいただろうか。銃声も止み、前方から「前進!」の逓伝がきて再び公主嶺へと行軍を開始した。先頭の部隊は、戦車隊ともども、外蒙兵に拉致され、後には、戦死体と所持品の略奪の様子が残されていた。…これが、のちに戦後の国会でも問題になった、「ウランバートル、暁に祈る」事件の発端であった。まさに中隊長の言葉通りに、“戦争が終わったあとの犬死”だったというべきであろう。

島崎中隊長については、私が、一喝されて素直に従ったワケがもうひとつある。前々章で私が黄河から原隊復帰したとき、中隊長と第一小隊長が作戦に出ていて不在だった、と書いた。その先任少尉の石川新太郎小隊長の話である。米空軍基地のある老河口攻略のため、途中にある南陽市攻撃に参加したのだが、国民党軍が米式装備で守る南陽に行く前に、作戦部隊は、共産八路軍に行く手を阻まれた。

第二〇五大隊からは、島崎第五中隊長、石川第一小隊長のほか、他の中隊から一個小隊宛集めた一個中隊が出ていたのだった。尖兵として前に出ていた石川小隊は、有力な八路軍に包囲されそうになり、全滅の危機だったという。島崎中隊長はその様子を見て取って「石川小隊は退がれ!」と命令した。石川小隊の占めていた位置は、大隊命令で重要な地点だったのだが、島崎中隊長の命令で退却して、全滅をまぬがれた。

その日の夕方、島崎中隊長は多くの兵隊たちのいる前で、大隊長に口汚く罵られたが、黙ったまま直立不動の姿勢で立っていたそうだ。一言も弁解しなかったという。陸軍刑法には抗命罪という罪がある。上級指揮官の命令に背いた時、適用される。島崎中隊長の態度は、自分ひとり罪をかぶっても、石川小隊50余名の生命を救おう、というものだ。

島崎隊の戦友会が毎年1回、群馬県の温泉で催される。島崎、石川両氏とも故人となったが、「あの時、退却命令がなかったら、この会の顔触れは変わっていたろうよ」と、石川少尉は、いつも私に語っていた。

公主嶺の道中での、私への一喝といい、島崎中尉は“ひとのいのち”をなによりも尊ぶ人だった。シベリアの捕虜時代にも、採炭量がノルマに達しないと、責任罰で何回か営倉に入れられた。1日に黒パン一切れと水だけで…。それでも「石炭掘りに行くよりはラクだったよ」と、笑ってみせていた。

企業でも団体でも、上司次第である。それが「経営者責任」でなければならない。ツブれた銀行の役員たちが、過大な退職金を抱え込んであとは知らんぷりである。そごうの水島広雄もそうであるし、三菱自動車の社長など、「辞める気はない」と豪語し、翌日には三菱各社に迫られて「辞める」とは!

ビルマのインパール作戦では、軍司令官の中将は、反対する参謀長の首をスゲ替え、数万の兵を飢え死にさせた。作戦が中止になっても、割腹自殺もしない男だ。

カーター大統領にクビを切られた、在韓国連軍参謀長を取材しに行ったことがある。主戦派だったからだ。ロスからデンバーに飛び、車を仕立てて、ロッキー山脈の中の隠居所を訪ねた。その時の実感は、アメリカの広い国土と人口の多さだった。在米の陸軍駐在武官は、アメリカの実力について、軍中央にキチンと報告を入れていたのだろうか。駐米武官も軍中央も、陸士、陸大の出身者だ。

敗戦も、彼らの指導のもとでは当然の帰結であった。そして彼らは何百万人もの同胞を殺して、責任を取らなかったのだ。 平成12年9月9日

編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4)

編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)
編集長ひとり語り第52回 戦争とはなんだ?(4) 平成12年(2000)9月17日 画像は三田和夫65歳(三田和夫の将軍コスプレ TOP CLUB ミュージックサロン1987.04.11)

■□■戦争とはなんだ?(4)■□■第52回■□■ 平成12年9月17日

日曜日の産経新聞に、長い続きものが連載されている。「紙上追体験・あの戦争」で、9月10日に94回となった。それは、「日誌」と知名人の「日記から」と、「鎮魂」という全戦域の戦死者の情報。さらに本文である。

その8月13日~19日、20日~26日、27日~9月2日、3日~9日、10日~16日の5週分の「鎮魂」に興味を覚えた。8月15日分から連日、戦地ばかりか内地の各地方での自決者の階級、氏名が明記されているからだ。その合計108名(軍人のみ)を将軍(元帥、大、中、少将)13、佐官(大、中、少)15、尉官(大、中、少)19、下士官兵(准尉2、曹長5、軍曹9、伍長6、兵長7、上等兵14、一等兵3、二等兵1)47、軍属雇員7、海軍兵7、に分類して眺めてみた。

やはり、軍事官僚の責任の取り方と、下級幹部と兵とに対する“教育”の成果とが、私の推論のように出ているのだ。産経新聞の取材源や、このデータが自決者の全てなのかどうかは、わからない。あくまで、紙面の数字からである。

元帥は1名、9月12日、第一総軍司令官杉山元は司令部で拳銃。その知らせで夫人は短刀で自決した。大将2、中将9(含海1)、少将1(家族4名とも)。中将が多いのは戦地での最高責任者が多かったから。大将と少将が少なすぎる。

大佐8(内1は妻子3人とも)、中佐1、少佐6。中佐が少ないのは参謀ということで直接責任感が薄い。大佐、少佐はそれなりに各軍位の最高責任者である。大尉6、中尉8、少尉5の計19。下士官の47は「神国日本の王道楽土の建設」に狩り立てられて、「欣然死地に赴く」現実である。

このほか「鎮魂」には、樺太での看護婦、交換手らの集団自決。右翼三団体の35名(妻2殉死)が、宮城前、愛宕山、代々木錬兵場での自決。戦犯指名の元厚相、元文相、士官学校歴史教授ら3名も名前があげられている。

ここに引用した自決者の数字は、そのままでは多い少ないとはいえない。階級制度の軍隊では、上級者になるほど人数が少なくなるからである。だが、私が満2年のシベリア捕虜から帰ってきた時、将官、佐官の戦争指導者のほとんどが、自決したと思いこんでいたものだったが、その感覚からいえば、上級者の責任の取り方が納得できないのだ。そして産経紙のあげたこの数字に、改めてその感を深くしている。

私の学生時代、軍隊時代の、あの“熱病”のような“御稜威(みいつ)のもとに益良男(ますらを=剛勇の男)が”の軍国歌謡のアジテーションは、捕虜時代にすっかり冷め果て、ともかく生きて帰ることに変わった。そしてさらに、戦争の持つ残忍性、惨虐性は、全世界の参戦国の全てに共通し、殺人、掠奪、放火、強姦など、あらゆる罪悪が横行するものなのである。従って、私は戦争中の悪事は全てアイコにすべきだと思う。

そんなことをホジクリだしっこする愚よりも、戦争を起こさせない賢に力を注ぐべきだろう。中国の殷墟から出てきた捕虜の人骨に全て頭部がないのは、蘇生を恐れたからだといわれる。斬首の習慣はむかしから中国にあった。だから、在中国の日本兵の戦死体にも、首のないものや、男性器を切除したものがあった、と古い兵隊はいう。国民党軍にも共産八路軍にも、兵隊の出身地によっては、そういった古い習俗を守る連中もいたのであろう。

日本が、明治維新後、西欧に追いつき追い越そうという努力は、ハングリーだったからこそだ。日清、日露の両戦役に勝てたのは、日本軍が強かったからではなく、清国は、長年の腐敗で病んでいたし、ロシアは帝政末期で、同じく病んでいて、弱かったから勝てた。それにオゴった指導者たちは、ハングリーな国民のケツを叩いて、“ゼイタクは敵だ・欲しがりません、勝つまでは”とあおり、新聞はその尻馬に乗って、“報国報道”を叫んだ。

知人の書いた中国戦記に、こんなくだりがある——一個中隊が駐屯する田舎の県城。分遣隊が八路軍に囲まれ全滅した。ところが駐屯地では、中隊長以下の幹部が、娼家に入り浸って泥酔していた。分遣隊を救援するどころか、中隊長本部が襲われ、全員逃げた。

実情を調べにきた参謀は、中隊長を調べた後、黙って拳銃を机上に置いてきた。中隊長はそれで自決。遊んでいた幹部たちは、全て二等兵(最下位)に落とされ、各地の各部隊に分散、転属させられた、と。

なにやら、新潟県警を想起させるが、軍隊は士気盛んな時は、責任の所在も明らかであるが、敗戦ともなれば、みな無責任だ。それを示す産経紙の「鎮魂」である。

平成11年3月の数字で、旧軍人の恩給を調べてみた。その基本になるのは、仮定年額の俸給だ。兵を1とすれば、少尉は1.6倍、少佐は2.9倍、少将は4.3倍、大将は5.7倍になる。公務員と旧軍人の合計で1.2兆円。10年ほど前までは年間3万人減(死亡)だったが、最近は5万人ほど減るようだ。現存しているのは、少将2のみで、中将、大将の本人はゼロで、遺族83を数える。

普通恩給と傷病恩給との比率は、大佐37対3、中佐250対9、少佐1777対129、大尉8360対560(単位・人)。これでみても、上級者には戦傷者が少ない。だが、兵で見ると、24万対4万で6分の1が戦傷者である。もう10年もすると、旧軍人の恩給はゼロになるだろう。どうして、こんな旧軍人恩給を持ち出したかというと、国家に対して責任を取るべき軍事官僚が、責任に対してはシカトウで、恩給だけは国家からキッチリと取っていること。

1銭5厘のはがきで兵隊にとられた連中に対し、上級者はその何倍もの計算基礎が確立されている。昭和21年2月1日にGHQの指令で旧軍人恩給が廃止されたが、昭和27年4月28日平和条約が発効するや、翌28年8月1日に恩給法改正で復活してしまった。本来ならば、旧軍人全員に平等で支給すべきだと思う。私にはもちろん恩給はない。

——こうして、無責任体制が着々と戦後政治を支配していった。軍恩連という団体も、自民党一党独裁を支持してきたのである。

では、「あの戦争」とは、一体なんだったのか? 戦後55年も経て、そのことを考える人々も、どんどん減っている。大東亜戦争と呼ばれた「あの戦争」も、関ケ原の役と同じ扱いを受けつつあるようだ。 平成12年9月17日