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シベリヤ印象記(2) シベリヤ印象記のはじめに②

シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会
シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年(1999)5月8日 画像は三田和夫65歳(最後列中央高笑い シベリア会1986.11.27)※シベリア会:シベリア・チェレムホーボ収容所の戦友会

シベリヤ印象記(2)『シベリヤ印象記のはじめに②』 平成11年5月8日

多分、8月16日の深夜のことだったと思う。私が初めてソ連兵と接触したのは…。

「有力なソ連戦車集団は、8月15日未明、新京南郊外に到着する模様…」という、首都防衛軍司令部の命令で、私たちは南新京の丘陵地に防衛線を造った。ソ満国境に進出していた師団司令部とは、もはや連絡も取れない私たち第205大隊は、防衛軍に編入されていた。「一兵能く敵戦車一両を倒し…」というのは、体当たり自爆を意味していた。だが戦車用の爆雷もなく、手投げ弾を4、5個ごとにヒモで縛ったものを抱えて飛びこむ…。

タコ壷を掘って身を潜め、地面に耳を当てて地響きを聴いていた。「オレの人生もこれで終わりだな」と、静かに想った。回想に出てくる恋人も妻子もなく、母親だけしか思い浮かばなかった。読売新聞新京支局に、北支から満州に移駐したことを、母親に伝えたいと、幾度か電話したが、空しくコーリングが鳴りつづけるだけだった。

そんな回想のうちに、15日の朝が明けて正午の放送を聴いた。天皇の声は、あのイントネーションで本物だと思ったが、どうやら戦争が終わったことを知った。

「また、読売新聞に戻れる!」日本の敗戦というよりも、生きていて良かった、というのが実感だった。

8月15日の午後から、満州国軍の反乱が起き、部隊は邦人婦女子の保護にまわった。我が三田小隊50余名を指揮して、日本人宅をまわり、付近の錦ヶ丘高女の校舎に集合させていた時のことである。先方から隊列を組んだ兵隊が進んでくるのである。

「オヤ? ここらあたりは私の担当で、他の部隊がくるハズもないのに…」と、我が方も隊列を組んで進みながら、先方を凝視してみると、どうも日本軍らしくない。と、距離が詰まってきたところで、先方もこちらに気付いたようだ。ソ連軍だ!

どちらが先に発砲するか、息詰まる瞬間がつづく。どうやら、向こうもオッカナビックリの感じだった。広い道路の両側で、日ソ両軍は素知らぬフリをして、スレ違った。兵力は同じぐらいの、先遣隊だったらしい。首都には、戦闘していない部隊を進駐させたので、衝突が避けられたのだろう。信じられないような事実である。

そんな邦人婦女子の保護で、日本人宅をまわって、悲惨な死体も数多く目撃した。レイプしたあと、生かしておくと問題化のおそれがあるので、殺してしまうのである。そして、ナニ気なく拾ったのが、日用日露会話本だ。貨物列車が西に向かった時から、私はロシア語を習いはじめた。先生は、三田小隊の貨車に乗りこんでいる、若い警戒兵である。

私は、そのソ連兵の隣で、イチ、ニイ、の数詞から、コンニチワ、サヨナラなど、会話本のフリガナを読んでは、彼に発音を直してもらった。もちろん、無学な彼は、ロシア文字も読めないが、発音は理解できる。

1カ月ほどの貨車輸送ののち、私たちはバイカル湖の南側を3分の1周ぐらいまわって、イルクーツク州チェレムホーボ(のちに地図で見ると、シベリア鉄道でイルクーツクから二駅目だった)に到着した。昭和20年10月の半ば頃だったろう。

1カ月ほどのロ語特訓で、私は基礎ロシア語の概要を身につけていた。それは、私の丸2年間のシベリア生活に、大いに役立ったし、旧部下たちの生命の安全にもプラスしたと信じている。

チェレムホーボ第一収容所。この炭坑町にきたのは、私たちが第一陣だったろう。北支派遣軍第十二軍第百十七師団第八十七旅団独立歩兵第二百五大隊。同第二百三大隊。合計3000名(ソ連側は、数が判り良いように、一大隊1500名を原則とし、数が足りない分は満州内で、日本人を見れば拉致してピッタリにしていた)。これを第一大隊、第二大隊として、さらに満州部隊の1000名の第三大隊を付け加えて、4000名の大収容所を組織した。

なぜ、ここに軍の組織を列記したかといえば、ソ連側は、日本兵捕虜を統制しやすいように、日本軍の建制をそのまま利用した。そして、点呼など、日常生活のほとんどを、自主管理させたのだった。

だが、やがて、軍の建制のままでは、団結が良すぎて、ソ連側の意図した反軍闘争、対将校階級闘争など、いわゆる民主化闘争の壁になることに気付き、収容所を改廃し、部隊をゴチャマゼにするのだった。

それらは、私たちが将校梯団の第二陣として、満2年で“ダモイ(帰郷)”したのちのことで、昭和21年の春、日本兵捕虜の死ぬべき連中が死に、身体も極北の地に適応したのを見届けてからだったのである。(つづく) 平成11年5月8日

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2)

編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)
編集長ひとり語り第50回 戦争とはなんだ?(2) 平成12年(2000)9月2日 画像は三田和夫23歳と70代(三田和夫が自身で机上に飾っていた小さな額縁写真)

■□■戦争とはなんだ?(2)■□■第50回■□■ 平成12年9月2日

8月下旬になって、ソ軍の司令部も進駐してきたようで、新京は首都だということで、日本軍は南の公主嶺に撤退するということになった。と、在満の日本軍の将軍たち(少将、中将)は、ソ軍機で輸送されることになり、公主嶺の飛行場に集められた。

その時、私は将校伝令として、大隊長の命令で、飛行場にいた北支那派遣軍第十二軍第百十七師団長(私の部隊長である)の、鈴木啓久中将に会いに行った。何かを届けたのか、何を伝えに行ったのか、その部分の記憶がまるでない。

陸軍中将で、師団長の閣下の様子を見て、新品少尉の私は、愕然としたのだけは、鮮明に覚えている。つまり、ソ軍の捕虜となり、ソ軍機でどこかに連れていかれることへの恐怖にオロオロしている男をみたのである。

——これがオレたちの師団長なのか!

階級制の軍隊では、将軍などと接することは、下っ端の兵にはほとんどない。私自身も保定の士官学校に入った時と卒業した時の2回だけ、はるかかなたに学校長の少将を“望見”しただけ。鈴木師団長とは対で会い、会話を交わした、初の体験であった…。敗戦直後のことではあったが、日本陸軍の中央にいる将官の、あまりにも程度が低いのに驚き、その反動で、将校伝令の内容を忘れてしまったのだ、と思っている。

なぜこんなことを、事細かに書くのかというと、後日譚があるのだ。1、2年前のこと、「フォト・ジャーナリスト」という肩書きの人物が、東京新聞に記事を提供して、そこに鈴木啓久元中将が登場していたのだ。ソ連の収容所で調べを受けたのち、中国戦犯として満州の収容所に移され、何十年間かの後に、釈放、帰国し、その収容所(監獄)時代の自供調書の内容が記事になった。

私の同期生(予備士官)にも、シベリアから中国に引き渡され、昭和33年ごろ帰国した男がいる。バイカル湖畔の炭坑町チェレムホーボの収容所も一緒だったが、私が作業隊で出ていたのに、彼は大隊副官として作業割りやデスクワークをしていた。口下手で反応の遅い方だったが、それが災いして戦犯として中国渡しになった。

その戦犯の内容は、対共産八路軍の討伐作戦の時、壊れた家の材木で、暖を取った(彼の小隊員が)のが、放火、焼き尽くし作戦の責任者とされたらしい。そのような調書が取られる時、彼は口下手で反論もしなかったので、戦犯として12、3年も監獄暮らしをした。だが、帰国後に、彼の名誉回復があり、国慶節に招待されて、天安門上に立ったという。

そういう話を承知していたので、鈴木元中将が、監獄でどのような調書を取られたのか(しかも、公主嶺飛行場での狼狽ぶりに見られる小心者)、私には想像がつく。つまり、中国側のいいなりである。その内容たるや、従軍慰安婦の強制連行を命令したとか、中国人民に対する残虐行為を命令したなど、軍の実情を知るものにとっては、まさに噴飯モノなのだ。北支軍下の慰安婦は、すべて朝鮮人と日本人である(実体験から)。それがどうして“強制連行”か。第一、師団長が軍の慰安婦管理の命令を出す立場か。バカ気ている。記事提供者も新聞デスクも無知!

このフォト・ジャーナリストには、会合で出会ったので、それを指摘したら、不愉快気な表情で、なにもいわずいってしまった。私はこのような、ジャーナリストとしての訓練もなく、見識もなく、時流に乗るだけの連中の蠢動を厳しく阻止したい。

韓国人の元慰安婦が、自分の被害体験を訴えるが、それが事実かどうかの見極めもなく、媒体は大きく取り上げる。中国のどこで醜業を強いられたのか、地名と時期を明らかにすれば、まだ、その土地にいた日本軍の戦友会があるから、すぐ調べられる。

中国では、軍が朝鮮人と日本人以外の娼婦を認めなかった。それは、兵隊たちの部隊名や作戦名が、中国人に漏れないよう、中国語の話せない女たちを選んだ、防衛上の配慮だった。そして私の知る限り、彼女らは朝鮮人の売春業者に連れて来られ、管理されていた。軍は、衛生管理の面で関与していた。性病予防である。

さて、丸2年のシベリア捕虜から帰国して読売社会部記者に復職し、数カ月で戦後の日本にも馴れてきたころ、ナント、将官級の連中が、まだ生きていることを知って、ビックリしたものだった。大佐、中佐級の参謀たちとともに、ほとんどが自決したもの、と思いこんでいたからだった。

「戦争とはなんだ?」というテーマで、答えられるのは、司令官たちとその参謀たちだけである。いま、多くの体験談や目撃談が出ているが、それは、「戦闘」の名場面だけで、残虐も、勇壮も、「戦争」という大テーマのそれではない。陸軍士官学校、海軍兵学校出身の“職業軍人”たちは、いうなれば“軍事官僚”で、彼らが兵士たちの生命を左右し、国家を滅亡させたのである。

いま、警察官僚のキャリアたちの不祥事が続発しているが、私は、軍事官僚と彼らとをオーバーラップさせてみている。エリート意識のおごりである。日本国と日本国家の、50年前の敗戦の徹底追及がなかったため、ふたたび、同じ道を歩んでいる。国家は衰退から滅亡へと進んでいるようだ。

その第一の戦犯はマスコミである。その場その場の現象に飛びつくだけで、「社会の木鐸」という言葉は死語になってしまった。

その著書で、相手の名前を出して、中国人を袋詰めにして池に投げ込み殺した、といった男は、中国各地を講演して回り、名士気取りである。名前を出された男は、裁判に訴えて、現実には袋詰めできないと、勝訴したが、著者は平気の平左だ。鈴木元中将のウソを宣伝するヤカラも同じである。(続く) 平成12年9月2日