数奇な運命をたどった女優・彼女らしい伝説がある」タグアーカイブ

最後の事件記者 p.206-207 昔懐しい中国人の映画女優

最後の事件記者 p.206-207 私は、このパイコワンと親しかった。昼間の彼女は、何かオカミさんじみて幻滅だった。だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。
最後の事件記者 p.206-207 私は、このパイコワンと親しかった。昼間の彼女は、何かオカミさんじみて幻滅だった。だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。

クラブ・マンダリンのパイコワン

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(今のクラウン)は、いまのように洋風で華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイト・クラブだった。戦時中、「東洋平

和への道」などの、日華合作映画の主演女優だったパイコワン(白光)の趣味が飾られ、小皿の一つにいたるまでの食器が、すべて香港から取りよせられるという凝り方だった。

赤い支那繻子で覆われた壁面や、金の昇り竜をあしらった柱、真紅の支那じゅうたんなど、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めしかった。照明は薄暗く、奥のホールでは静かにタンゴ・バンドが演奏しており、白い糊の利いた上衣のボーイたちが、あちこちに侍って立っていた。

私は、このパイコワンと親しかった。もちろん、彼女には彼女なりに、私と親しく振舞う理由があった。昼間の彼女は、切れ長の目が吊り上った支那顔で、早口の中国語で、怒鳴ってるのかと思うほどの調子でしゃべる時などは、何かオカミさんじみて幻滅だった。

だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。私はさっきから、家鴨の肉と長ネギと、酢味噌のようなものを、小麦粉を溶かして焼いた皮につつんだ料理を、彼女が手際よくまとめてくれるのをみていた。客の前に材料を揃えて、好みのサンドウイッチを作って喰べるのに似ている。

その器用に動く指を、眼でたどってゆくと、この腕まで出した彼女の餅肌の白さが、ポーッと

二匹の魚のように鈍く光っていた。

『美味しいでしょ?』

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ十年ほど前ごろのように美しい。彼女も映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

私が彼女の映画をみたのは、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、今では下腹部にも脂肪がたまり、四肢は何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。

パイコワンといえば、今の中年以上の人には、昔懐しい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい伝説がある。

上海のある妖楼で働らいていた、彼女の清純な美しさに魅せられた、特務機関の中佐がすっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだというのがその一つである。

ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明け切れずに、姿をかくしてしまった。

最後の事件記者 p.208-209 パイコワンは殺されそうだと

最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。
最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

狂気のように中尉を求めたパイコワンが、たずねたずねて上海の機関へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸として追われた彼女は、日本へ入国するために米人と結婚し、中尉を求めて渡ってきたのだと。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた日本へ移り住んだともいう。

私にその物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終るのを待っていた。

『素敵なお話ね。ロマンチックだわ』

そう呟いたきり、否定も肯定もしなかった。だが、何か隠し切れない感情が動いているのを見逃すような私ではなかった。

美しき異邦人

——何だろう?

そう思った時、私はフト、彼女にせがまれて、警視庁の公安三課へ連れていったことを思い出した。

当時、マニラ系のバクチ打ちで、テッド・ルーインの片腕といわれるモーリス・リプトンが、このマンダリン・クラブの二階で、鉄火場を開こうとしたらしい。ところが、警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

『ヤイ、ここが東京だからカンべンしてやるが、シカゴだったら、もうとっくに〝お眠り〟だぜ!』と。

リプトンにそのことを聞くと、「ナアニ、久しぶりであったものだから、懐しくて眼を少し大きくムイただけでさア」と、笑いとばされてしまった。

しかし、パイコワンは、殺されそうだと騒ぎ立てた。その話をききに、〝密輸会社〟といわれるCATの航空士と住んでいた、赤坂の自宅に彼女を訪れたのが、交際のはじまりであった。

『ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか判らないのよ。相談に乗って

ね』 彼女はこんな風にいった。