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最後の事件記者 p.176-177 役人の秘密を守る義務

最後の事件記者 p.176-177 役人はつねに背反した心理にある。自分のやっている仕事が、ニュース・ヴァリューがあって、新聞記者に追い廻されている、ということに、やはり仕事の誇りを感ずる。
最後の事件記者 p.176-177 役人はつねに背反した心理にある。自分のやっている仕事が、ニュース・ヴァリューがあって、新聞記者に追い廻されている、ということに、やはり仕事の誇りを感ずる。

特ダネ記者ということは、心理作戦の遂行者ということだ。役人という人種は、理詰めの仕事

をしているので、警察での取調べに一番弱いといわれる。理クツもハチの頭もないような人種ほど、口が堅いという。義理人情の世界に生きる人たちである。

つまり、役人の秘密を守る義務に違反させられるのは、彼らのこの心理をつかまなければならない。筋道を立てて、理詰めで押してゆく正攻法もある。それと、この男は仁義に固いから、話しても大丈夫、裏切られない、という実績をもって、信頼を得ることも必要である。

また、同時に役人というのは、オーソリティ、つまり、権力や権威に対して弱い。

「すべて知っているのだゾ」というポーズも必要である。彼らは、このポーズに対して、「知っているなら、かくしたって無駄だから話そう」という、心理状態にまきこむ。

役人はつねに背反した心理にある。自分のやっている仕事が、ニュース・ヴァリューがあって、新聞記者が聞きにきた——新聞記者に追い廻されている、ということに、やはり仕事の誇りを感ずる。秘密というものは、発表されたがることによって、秘密としての値打ちがある。だから、常に、発表されたくてウズウズしており、それがデカデカと扱われることによって、彼の仕事への誇りは満足させられるのである。

その気持を食い止めているのが、その仕事が途中でもれたために失敗することであり、法的な

秘密を守る義務である。その辺のところを研究すれば、ヒントさえあれば、聞き出せる手は、いくらでもあるのである。

新聞記者と警察官

先日、警察官が新聞記者に対し、記者と承知のうえで暴行した事件があった。各新聞は筆を揃えて、ことに朝日などは、〝記者が暴行されたからといって、取上げるのではないが〟と、なくてもがなの断り書きまでを前文に入れて、いずれも特筆大書したのだった。

そうして、この事件は、警察官の教養の問題として取上げられ、警職法にもひっかけられて、〝暴行する警察官〟として、大いに批判を受けたのである。

だが、私は暴行する警視庁予備隊ばかりが、表面的な暴行の事実だけを取りあげられ、非難されていることに疑問を持った。どうして、彼らが記者と承知のうえで、暴行を働らいたか、ことに、警部という地位や、年令からいっても、その暴行を阻止すべき人物までが、先頭に立って乱暴したかという、その内面にまで立入って考える必要があるのではあるまいか。

警察官は、直接自分が手がけた事件を通して、一番、新聞および新聞記者を軽べつし、同時に、 一番、新聞および新聞記者を恐れている職種の人物だと思う。

最後の事件記者 p.178-179 映画物語のように脚色する

最後の事件記者 p.178-179 新聞は真実を伝えていない——このことを痛切に感じているのは、警察官とその事件の直接の関係者である。
最後の事件記者 p.178-179 新聞は真実を伝えていない——このことを痛切に感じているのは、警察官とその事件の直接の関係者である。

警察官は、直接自分が手がけた事件を通して、一番、新聞および新聞記者を軽べつし、同時に、

一番、新聞および新聞記者を恐れている職種の人物だと思う。つまり、どんな小さなこと、それは事件発生の時間や、場所の番地、関係者の姓名、年令などという、いうなれば、事件の本質とは関係のない、末梢的な問題での、記者と新聞とのウソを、一番良くしっているからだ。

新聞は真実を伝えていない——このことを痛切に感じているのは、警察官とその事件の直接の関係者である。「ブンヤさんが大事件に仕立てちゃうのだからナ」「あんなマズイ女も、ブンヤさんにかかると〝美人殺さる〟だからナ」「よせよせ、そんな大事件じゃないし、背後関係もないし、つまらない、ただの事件だよ」と、こんな言葉は、デカ部屋や署長、次席の口から、しばしばきかれる言葉だ。

ニュース・センスの違いもあろう。その事件の社会的判断の違いもあろう。だけど、新聞記者は、事件をある時には美化し、ある時には必要以上に罪悪視し、ナイロン風船のようにふくらませ、映画物語のように脚色するのである。それを知っているのが警察官だ。

同時に、彼らは、その新聞記事によって起きてくる、社会的反響の大きさも、自分自身で良く知っている。だから恐れるのだ。署長の運転手が事故を起したが、新聞に出たために処分されたり、新聞に賞められたために、総監賞をもらったりと、いずれの面でも、その力の強さを知って

いる。そのため、彼らは必要以上に卑くつになり、記者の御機嫌をとるようになる。

試みに一例をあげるならば、新聞や新聞記者を軽べつも恐れもしないのは、警察学校を出てきて、はじめて外勤勤務になったばかりの、若いお巡りさんである。

彼らの前には、新聞記者も一般都民も、すべて一視同仁である。だから、彼らは臆面もなく、社旗をひるがえして、サッソウとスピードを出す自動車を停める。「スピードが出すぎている」「一時停止をしなかった」「信号無視だ」と。

同乗している記者の抗議も聞かばこそ、彼らは平気で運転手に免許証の提示を求める。交通違反通告書を渡す。その通告書が、やがて数時間後には、交通主任や交通課長のもとで、クズカゴに放りこまれるのも知らずに、正々堂々と職務を執行するのである。

そうして、何年かの経験を積むうちに、彼らはやがて、新聞と新聞記者を軽べつしたり、憎んだりするか、恐れるようになるのである。彼の経験の中に、「新聞は真実を伝えない」という、不信感が刻みこまれた時に。

私は、そのような心理的経過が、あの暴行警官たちにあったのではあるまいか、と考えている。話がそれてしまったが、特ダネ取材というのは、純枠に心理作戦なのであって、それは不断

の努力が必要なのである。必ずしも、他人より早く出勤したり、役所の中を熱心に歩き廻ることではない。