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雑誌『キング』p.21中段 シベリア抑留実記 収容所生活

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 中段 収容所生活
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 中段 収容所生活

れていった。虱による発疹チブスが発生した。四千名の収容所の九割が罹病した。脳症を起こした患者は四十度以上の高熱のまま「内地行の汽車が出る出る」と叫んで吹雪の戸外へ飛び出した。罹病しないものは二メートルも凍りついた土をコチンコチンと突いて戦友の墓穴を掘っていた。毎日毎日の死亡者に屍室は収容しきれなくなった。昨日墓穴を掘ったものが、今日はその穴に埋められた。高熱は水を求め、水は下痢を起こし、内地の夢をみて逝った。ただ下痢を併発しないもののみが残った。

水道が引かれ、電燈がつき、肉が入り、脂肪が廻って、日ソ軍医を先頭に全員必死の防疫に厳寒期をすごした三月になってようやく下火となり、約二割の尊い犠牲をだして最初の冬の試練は過ぎさったのだった。

収容所生活

終戦時多くの部隊はおおむね部隊ごとにまとまっており、武装を解除してから、一本の列車が千五百名キッチリとして送られた。そのため各所とも建制の部隊

雑誌『キング』p.21上段 シベリア抑留実記 最初の冬

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 上段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 上段

働は鉄のように守られた。しかも炭坑は二十四時間三交替で決して休まなかった。私達には働くどころではなかった。寒さと闘うのが精一杯だった。朝夕の点呼は一時間以上も屋外に立ち、働きが悪くて二時間三時間もの残業をやり、業間作業に使われ、八時間労働と聞こえはよいが、八時間の睡眠すらとれない有様だった。隙間風のもれるバラックの中で貨車の車軸からとってきた油を灯し、玉蜀黍粉の湯がいたものをすすった。水くみは隊列を作り、警戒兵が付いて一キロ以上も往復した。たまの休みには朝暗い中から起き、六キロも歩いて入浴にゆき、夜遅く飯抜きで帰ってくる。その入浴も桶に湯をもらって行水するのだった。

眼に見えて体力が消耗した。痩せて真黒な顔をして虱をたくさんつけていた。感冒が発病する、下痢は止まらない、凍傷ができる、なれない作業から負傷する。衣食住のあらゆる悪条件の結果は、感冒は肺炎に、下痢は栄養失調に、凍傷は凍冱(全身凍傷)にと進行し、バタバタと倒

雑誌『キング』p.20下段 シベリア抑留実記 最初の冬

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 下段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 下段

れに風が吹き加わって体感温度は六十度にも七十度にも達しただろう。

防寒帽の垂れをしっかとおろし、鼻覆いをかけ、わずかに眼と口だけをのぞかせている。はく息は風をさけて細めた眼のまつ毛の一本一本を氷結させて見開くこともできない。覆いを外したらスーッと真白になって、夢中でこする鼻。厚い防寒大手套の中で握ったりひろげたりし、ちょっとでも曝したらもう温まってこない手。毛皮の防寒靴に二枚もフェルトを敷いても、足指を伸縮させながらの足踏みを止められない足。毛皮と真綿の外套にしみこみ、膝元からはい上る寒さは、ちょうど無数の針のように形のあるものではないかと思えた。

零下三十度を越えると屋外作業は中止という原則だったが、門を出かける時の寒暖計の示す三十度で、一度出たら何度に下がろうが八時間労

雑誌『キング』p.20中段 シベリア抑留実記 最初の冬

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 中段 最初の冬—寒さ—
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 中段 最初の冬—寒さ—

ろうか、私がみたままの抑留二年の生活をお伝えし、小さな力でも結集して一日も早く皆が懐かしい故国に還れるようにと願っている。

おことわりしておきたいことは、地区により、労働も待遇も違い、さらに悲惨なところや、遥かに楽な方面もあったらしいし、私のいたのはシベリアの一炭坑町で、これがソ連のすべてではないということである。

最初の冬 —寒さ—

私達の経験した最初の冬の想い出は、誇張でなく正に地獄のようだったといえる。今思いだしてもゾッとするようなあの寒さは、もちろん行動のすべてが拘束され労働を強制されている環境のため倍加されているのだが、私達の寒さという感じを遥かに通り越してしまっていた。

最低は寒暖計に零下五十二度を記録したが、そ