私が逮捕された数日後に、調べ主任に各社の記事の様子、つまり取り扱い方を聞いたことがある。すると、石村主任はしいて無関心をよそおっていった。
「ナーニ、毎日か何かが書いていたっけよ。それもあまり大きくなくサ。そのほかは、何か小さな新聞が、二、三取り上げていたらしいよ」
石村さん、ありがとう。私は心の中で感謝しながら、「何だい、そんなこと、かくさなくたっていいじゃないか」と、いった。彼の態度から、私の逮捕の各社の記事は、決して私に好意的ではなく、しかも、全部の社が、割に大きく書いているのだナ、と感じた。それを、この主任は、私に打撃を与えると思ったのか、私が可哀想だったのか、心優しいウソをついてくれたのだと、判断したのだ。
私は新しい入房者があると、その人に根掘り葉掘り、私の逮捕の記事と、その論調とについて質問した。やはり、判断通りに、決して香んばしい扱いではないと判った。
横井事件に関連して、私が「犯人隠避」容疑で、逮捕されるにいたった当時の様子を、少し説明しておかねばなるまい。
日曜日は私の公休日だった。七月二十日の日曜日も、だから休みで、一日自宅にいた。ひるねをしたり、子供たちと遊んだりして、夜の八時ごろになった時、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が明朝、通産省を手入れするが、予告原稿を書こうか」というのである。
彼一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから、待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、読売旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた
男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。
「我が事敗れたり」と、私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも、当局より先に、事の敗れたのを知ることができた幸運を、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。
当局の先手を打って、小笠原に会ったのだが、ここで逆転、当局に先手をとられて、その居所を割り出された。それをまた私が、今夜、先手を取りかえしたのだ。
この原稿を読んだ瞬間には、私の表情はサッと変っていたかも知れない。しかし、読み終えた時には、全く冷静だった。そして、静かに読み通してみた。
小笠原は十八日朝、「札幌へ行く」といって、外川方を立去り、外川方では二十日の午後、警察へ届出たとある。すると、旭川署が外川さんを参考人として調べて、同氏の戦友の塚原さんの紹介であずかった男だ、といったに違いないから、警視庁では、明二十一日朝、塚原さんを呼ぶに違いない。
その口から、私の名前が出てくるのは、月曜日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。
辞職を決める
すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎
氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。