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赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 風見章とシベリヤ・オルグたち

赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 Fusanosuke Kuhara is a Japanese who boasts that "Stalin and I can talk to each other without hesitation". Kuhara was elected chairman of the Japan-Soviet diplomatic conference.
赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 Fusanosuke Kuhara is a Japanese who boasts that “Stalin and I can talk to each other without hesitation”. Kuhara was elected chairman of the Japan-Soviet diplomatic conference.

二十七年一月二十九日、近衛内閣書記官長だった風見章氏の肝入りで、銀座の交詢社に日ソ経済会議が開かれたのをヤマとして、日ソ貿易促進会が生れた。その事務局長には、シベリヤ・オルグ田辺稔氏が就任した。

 経済攻勢が成果を納めるや、これは徐々に政治攻勢へと変ってゆく。二十八年五月、風見氏の主催で、日ソ国交調整準備会が設けられ、これは二十九年四月十日、日中日ソ国交回復国民会議となって発足し、事務総長として馬島氏を戴いたが、事務局長はこれもシベリヤ・オルグの土井祐信氏である。

 風見氏といい、馬島氏といい、これらの人々は、あるシベリヤ・オルグにいわせると、失礼ながらオポチュニストであるという。オルグからみて担ぎやすい、言いかえれば使いやすいらしいのである。しかし、いわば〝赤いフンイキ〟を持った人たちである。国民を引っ張ってゆくには適当ではない。

 そこで、久原氏の引出し工作となった。久原氏は松岡洋右とともに「スターリンとはオレ、キサマの仲」と称する日本人である。二月十一日、久原氏は日ソ国交会議会長に選任されたのである。

ここで、一応交渉が始まるまでの経過をみてみよう。

▽二十九年
十二月十一日  重光外相の「中ソとの国交回復を望む」声明
十二月十六日  モロトフ外相の「ソ連政府に用意あり」声明
十二月二十七日 共同藤田記者、代表部に招致さる

▽三十年
一月十一日   鳩山「国交調整」車中談
一月二十五日  鳩山・ドムニッキー会談
一月三十日   モスクワ放送、ド書簡を確認、交渉地として東京かモスクワを提案、外務省もまたド書簡を発表
一月三十一日  ソボレフ国連ソ連代表より「ド書簡が正式文書なり」との回答が、沢田国連大使へあった
二月一日    沢田大使、交渉地としてニューヨーク案をソボレフ大使に申入れ
二月四日    政府、交渉開始を閣議決定
二月五日    沢田大使、口上書をソボレフ大使に手交
二月七日    鳩山首相、九州の車中談で「交渉地はモスクワでも良い」と語る
二月八日    モロトフ外相、ソ連最高会議で「成功期待」を演説