正力の郷里高岡」タグアーカイブ

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 毎日は極めて〝健全〟な会社

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

戦後、東日本を地盤とする読売の部数に加えて、二十七年に大阪進出が成って全国紙の形を整えたことで、ついに念願の三大紙時代になったものである。読売は、その後も、九州に進出、地元紙と朝毎に押えられた名古屋をさけて、正力の郷里高岡に北陸支社を開設、完全な全国紙となったが、以来、僅々数年にして、二大紙として朝日と対立するにいたった。

四十三年三月の、販売関係における五社の発行部数がある。朝日五四七万、読売四九五万、毎日四四一万、サンケイ一九八万、日経九一万という数字である。新聞の発行部数について、正確な数字をつかむことは、極めてむずかしい。例えば、広告関係では、部数をふくらませて、広告価値と広告単価との根拠にせねばならないし、新聞協会が毎年四月と十月に行う部数調査では、部数に応じて会費負担が増減するので、とかく内輪の数字を公表するといった実情にあるからだ。

ここ数年来、読売の元旦付紙面を飾り出した、恒例の部数発表によれば、東京(北海道、北陸支社分を含む)、大阪、西部で、合計五百六十万部。前記数字を六十五万部も上廻った、四十三年元旦号の部数が示されている。一方、朝日は自社発行の「広告統計月報」で、四十三年二月の数字として、五百四十九万(弱)部を発表している。

いずれの数字が正しいかは別として、寂として声のない毎日をみれば、新しい二大紙時代が、この昭和四十年代に始まりだしていることは明らかであろう。朝日と読売の、次は六百万の大台

のせ競争によって……。

私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

「毎日は、今や極めて〝健全〟な会社になった。詳しい数字は知らないが、不動産を処分して借金を返済し、経営を圧迫する厖大な金利負担を軽減した。ことに、大阪に持っていた沼みたいな土地がビル建築の出土で埋め立てられ、新幹線にひっかかったのは、全く幸運であった」

私はさらにたずねた。不動産を次々に処分したというのは、いうなれば〝売り喰い〟で、今や本社もこのビルの店子、毎月、家賃の日銭に追われるのではないか、と。

「新聞界における評価は別として、銀行家として見るならば、発行部数に見合った、以前よりも堅実な会社になった、というべきでしょう」

村野副頭取のこの言葉は、朝日と読売との二大紙時代を裏付けるに十分であろう。〝栄光ある老大英帝国〟にも似た、毎日新聞の詳しいレポートは、続稿にゆずろう。

昭和二十年代の十年間は、戦後新聞史のうちで、最も華やかな、「スター記者」時代、紙面の優劣の戦いの時代であった。新聞記者個人の才能と個性とが、いうなれば〝妍〟を競った時代で、また、殺伐な戦後の世相を反映し、その実力競争のモノサシとしての「事件」にも事欠かなかったのである。その中で〝事件の読売〟が大きく伸びて、三社てい立の時代をつくった。