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正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 戦後の読売には「社長」はいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

戦後の読売には、正力の留守居役であった馬場恒吾を除いて、「社長」はいないのである。社員名簿が、それを雄弁に物語る。しかも、正力もまた、社長の地位にはついていない。戦犯容疑で巣鴨に収容され、釈放。つづいて、追放指定、同解除となってからもである。

戦後はじめて、名簿がつくられたのが、二十三年二月現在のものだが、「有限会社」時代で、「代表取締役社長」に馬場がおり、他にヒラ「取締役」が五名。二十四年度は、馬場は変らず、取締役主筆に安田庄司、常務取締役に武藤三徳、ヒラ取四人に監査役が加わる。

二十五年度は、「株式会社」となったが、馬場が社長で、安田が副社長。ヒラ取が六人にふえて、この時はじめて、務台がヒラ取で名を出した。二十六年度は、馬場が顧問となって、安田が「代取副社長」、武藤常務の名が全く消えて、務台が代って常務になった。ヒラ取も一人ふえて七名になる。

二十七年度。安田副社長、務台常務は変らずで、ヒラ取がまた一名増の八人。ただし、馬場顧問と並んで高橋雄豺が顧問に列した。二十八年度も、この陣容のままで、二十九年度は、監査役が一名増の二名になっただけ。

ところが、三十年六月十五日現在の社員名簿になると、第一行目に「社主、正力松太郎」の名が加わり、「代表取締役副社長」高橋雄豺、「代表取締役専務」務台光雄の連名となる。翌年には、ヒラ取から二名が常務になって、このまま推移してゆく。

この経過で明らかな通り、正力の公職追放もあって、内務官僚で四年後輩の高橋を副社長に据えて、正力は「社主」という新らしい地位(呼称というべきか)に、ついたのであった。その時の用意に高橋は三年前から顧問の地位にあったのである。新聞社の役員は、新聞業務の経験者でなければならない。小林与三次が官を辞したあと、若干期間、主筆として勤務したのちに、取締役になったのと同じである。

正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。

さて、ポスト・ショーリキで、果して、務台は、人と争い、抵抗を排除してまで、「社長」の地位を得ようとするのであろうか。務台文書の中にも、「昔から、派閥のある新聞は、必ず読者と世間の信用を失い、やがて没落の運命を免れないのであります」(25・3・11付「新聞通信」務台演説)と、自ら講演している務台が、事実上の〝社長〟の地位にありながら、単なる「社長」の名を求めてその晩節を汚すの愚を、あえてするであろうか。

務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて

傷を求むるの愚、といわざるを得ない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 〝読売の跡目争い〟を興味本位に

正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。

務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて

傷を求むるの愚、といわざるを得ない。

さらにまた、小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。現時点で、務台を追放してみても、なんのメリットがあるだろうか。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。新聞界に日の浅い小林には、到底無理なことである。

毎日新聞において、本田親男から上田常隆へと、社長が交代したのは、一種のクーデターであった。そして、上田は、政権交代のための、暫定社長であったといわれている。だが、毎日の今日の斜陽を招いたものは、このクーデターによって、銀行金融筋に、もっとも信任あつかった、原為雄を失ったからだという、説をなす新聞人もいる。

新社屋完成は二年後。務台に花をもたせて、ポスト・ムタイの構想を描くのに、小林にとって、三年、五年を待つのは、少しの難事ではあるまい。しかも、九月十三日付の読売PR版をみると、八月二十九日の地鎮祭で、「クワ入れする小林副社長」の写真が掲載されている。務台は、それだけの礼儀をわきまえた紳士である。

こうみてくると、週刊誌記者が、〝読売の跡目争い〟を、興味本位に書き立てようとしても、ケムリすらないのである。では、どうして、務台の〝読売精神〟作興への檄が、このようにネジ曲げられるのであろうか。

この時、示唆に富んだ一本の外電がある。別項で解説した、岩淵辰雄のいう〝疑い深くなった正力〟にも似た話である。

「米国に亡命したスターリンの娘、スベトラーナさんが、今月末『わずか一年』と題する新しい本を出版する。彼女は、新著でもスターリン首相を『冷酷ではあったが、きちがいではなかった』とかばっている。

同女史によると、スターリンは一九三〇年代の粛正のときには、正気を失わず、反対派を弾圧しただけだった。だが、晩年は病人とおなじで、陰謀がくわだてられているのではないかという、疑惑と妄想になやまされ、少しでも疑いをもつと、忘れることができなくなっていたという」(四十四年九月十九日サンケイ紙)

そればかりではない。務台とガッチリ組んだ編集局長原四郎の存在がある。

新社屋建設の金繰り、朝日との六百万部の大台のせ競争という、苦しく困難な命題を抱えた務台の後釜というのはさておき、「編集局長」のポストなら、オレにだって、という対抗馬の何人かがいるのである。

また、亨、武という、正力の二子をいままでカツいできて、アテの外れた人たちもいるであろう。——それらの人々にとっては、務台—原体制が、まだこれから数年もつづくのでは、自分の年齢、客観情勢からみて、〝出番〟がなくなってしまう、というアセリがあるのではなかろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 週刊誌に〝売りこんだ〟男がいる

正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

新聞、週刊誌に追尾す

読者は、ここで、さきほどの記者になりたい、青年の話を想い起して頂きたい。

もはや、〝大きくなりすぎて〟しまって、読売精神さえ地を払っている読売で、読売精神を鼓吹しようとして檄を飛ばし、それゆえに内紛を喧伝される——務台の悲劇的とさえもみられ得る姿。そしてその務台自身が、六百万部を目指し、輪転機九十六台が稼動する工場を内蔵した、大社屋建設の巨歩を進めつつあるという現実。

読売は〝大きくなりすぎた〟のではなくて、務台自身の努力で、〝大きくしすぎた〟のである。昭和四年の読売入社から四十年。その人生のすべてを賭け、正力を助け、女房役に甘んじ、販売店主が〝造反〟したときけば自らのり出して解決するという、母親がわが子を育てるほどの、こまやかな愛情をそそいで、それが大きく成長した今日、もはや、務台の〝読売への愛情〟は、読売社員に理解されなくなっているのである。——

業務の務台ばかりではない。編集の原とて同じである。

〝務台文書〟のような、直接のキッカケこそないが、編集局長原四郎に対する、〝批判〟の声は、

澎湃として起っている。そして、キッカケのないことが、務台攻撃を一そう強めたとみられるのである。

週刊誌記者は、以上のような私の〝解析〟の前に「読売の内紛」を記事にすることを諦めたのであった。私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもないのであった。全くのところ、あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、あまりにも真実に眼をおおい、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

「これでは、企画通りにゆかなくなった。絵にならないなあ(記事にならない)。折角の材料だったのに……」

週刊誌記者は、アキラメの悪いツブヤキを残しながら、私に一礼して去っていった。そして、明らかな事実として残ったことは、そのようにネジ曲げた趣旨で、この話を週刊誌に〝売りこんだ〟男が、読売社内にいる、ということであった。

現実に、読売には〝内紛〟などはないし、しかも、務台—原体制は、さらに続くということである。そして、務台—原体制にアダをしようという動きも、その体制が育て、培ってきた「読売新聞」そのものがさせるのである。ここに、従来の意味における「新聞」で従来の意味の「新聞人」として成長した、務台—原ラインの、現実とのギャップがあるのである。

務台—原体制が、さらに三、四年もつづくであろうという、見通しの根拠を述べねばならない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 原の後釜を狙える者はまずいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。

もちろん、二年後に完成を予定される、新社屋という大事業がある。これは、務台をおいては、他に人を得られないことだ。原為雄を失った毎日新聞の前例があるのだから、読売がその轍を踏むことはあるまい。

さらに人事体制がある。

報知の救援に、務台直系の菅尾と、乞われた岡本が赴いた経緯は詳述した。そして、さきごろ報知のド口沼ストが、ひとまず解決したのであるが、これは、労使ともにみるべき成果がなく、数回の休刊という犠牲を払って、なおかつ〝停戦〟的解決でしかない。

ところが、昨秋、報知入りして、平取締役(広告担当)にすぎなかった金久保通雄が、さる四十四年二月十七日、常務・編集局長に選任されて、ド口沼ストを経過しておったのだが、さきごろ、スト解決とともに、突如として解任されて、非常勤の平取締役に格下げされた。そして、読売本社から審通室長(役員待遇)で元社会部長の長谷川実雄が派遣され、代表取締役副社長兼編集局長という、破格の待遇が与えられた。

この解任劇は、もちろん、報知社内でも何の説明も行なわれていないのだが、さきごろのスト解決とは無関係ではないらしい。

金久保は、社会部長、出版局長というポストで、原の後を追うようにピタリとついてきた男だ。いうなれば、原の次期編集局長としては、対抗馬ともみられてきていた。それが、報知入りをし

て、編集局長となった時、その〝施政方針〟演説をして、「紙面で巨人軍優遇はしないし、労使の紛争解決のためとはいっても、休刊などは絶対すべきではない」旨の、組合迎合ともとれる〝スジ論〟をブッたといわれている。

このような態度が、荒廃した報知経営陣再建のため、菅尾—岡本体制を造った務台にとって、決して、愉快なものではなかったと思われる。その揚句の、解任、非常勤である。もちろん、読売復帰は望むべくもないし、原の対抗馬はこうして〝落馬〟となった。

後任の長谷川は、もちろん編集出身。なかなかのヤリ手で、労担であったのだが、代表取締役副社長というのだから、全く、金久保と違って、会社側の編集局長である。ところが、長谷川もまた、金久保にピタリとつづいたポストで、出版局長こそ経てないが、やはり、読売編集局の部長クラスに〝子分〟をもつ、原の対抗馬の二番手であった。

それが、務台直系の菅尾社長と棒組みで、代取・副社長となったということは、〝報知に骨を埋め〟にやらされたワケで、これまた読売編集局長としては、〝落馬〟である。こうなってみると読売の重役その他では、編集局部長クラスに有力な〝子分〟をもち、原の後釜を狙える者はまずいない。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 「サンケイは『新聞』をかえます」

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

青木は、原社会部長時代に、大阪社会部へ出たりもしていたが、生粋の社会部育ちとあってみれば、原直系といえよう。そして、後任に、世論調査室長で社会部出身の竹内理一をもってきた。竹内は「日本総点検」担当の論功行賞とみられるが、重症の〝原チン恐怖病患者〟といわれており、また、従来の政治部を徹底解体して派閥を破壊し、さらに、経済部長の河村隆をも局次長に登用したことによって、政治、経済、社会の三部を、完全に掌握した形となった。しかも、局長、二総務、三局次長のピラミッド形で、編集総務の為郷恒淳、鷲見重蔵が、間にはさみこまれるスタイルである。

このような、最近の人事の動きをみてみると、これは、務台—原体制強化である。と同時に、務台文書の趣旨を、故意にネジ曲げて読売の〝内紛〟を宣伝しようとする動きに対しての、無言の解答でもあろう。

務台の〝花道〟ともいうべき、大手町の一角に立ってみると「読売新聞社本社建設用地」と、大書された板囲いの中では、早くも工事が進められているのがうかがわれる。その用地の向う側には、サンケイ新聞の社屋があって、フンドシ(垂れ幕)が一本。

「サンケイは『新聞』をかえます」

八月の末ごろ、サンケイのPR版が都内に配られた。「九月一日から新紙面!」と謳ったそれ

にも、「サンケイは『新聞』をかえます」とある。

「どの新聞も同じようなもの——個性時代だというのに、日本の新聞は、このような批判をうけています。サンケイ新聞は、この批判にこたえる決意をしました。九月一日から、朝刊紙面を大刷新します。ありきたりの紙面改善ではありません。新しい時代が要求する新聞、読者が心から待ち望んでいる新聞、それをサンケイは一年以上にわたって、徹底的に追求しました。ほかの新聞と、どこがどうちがうか——」

そのPR版の冒頭の言葉である。これが、フンドシにいう〝新聞をかえ〟る、ということである。

ここがちがいます——新聞もどうやら、スーパーのバッタ商品のようなキャッチ・フレーズを使うまでに、〝身を落し〟たようである。試みに、九月十九日付サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。

全二十頁を、ご主人向き十二頁、奥さま向き八頁の二本立てにわけてある。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用にとなっていて出勤の時にもち出されても、自宅では困らない、というのが特徴である。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。

正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞社は資本金十億円として再発足

正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。

これが〝ありきたりでない紙面改善〟の中身である。

やたらと、小組みや囲いもの(注。ケイ線で記事を巻いた小記事や、紙面をケイで区切った中記事のこと)が多くて、凸版の見出しやカットがふえて、全紙面を眺め終ってみた印象は、どうしても、「週刊誌」化の一語につきるようである。

新聞が、週刊誌のマネをしだした——これは重大なことである。そればかりではない。サンケイをめぐる情勢は、朝日、読売の超巨大紙化のアオリをうけて、極めてキビしいものとなってきている。

さる四十四年七月一日付で、資本金五百万円の日本工業新聞社(サンケイ系列)が、一躍、十億円の大会社に変ったことである。これを報じた日本新聞協会の機関紙「新聞協会報」の記事をおめにかけよう。

「日本工業新聞社は一日から資本金十億円の新会社として再発足するとともに、海外経済ならびに技術情報や新製品情報の充実など、大幅な紙面刷新を行なった。

これは、資本自由化の新時代に必要な産業情報を、各界の職場で働く人のため提供しようという趣旨で、〝仕事に役立つ総合産業紙〟をめざして行なわれたもの。

紙面刷新の主な内容は、①第四、第五面の見開きを、海外の経済、技術に関するワイドページ

とする。②流通面、労務面のページをそれぞれ週三回、週二回新設し、欧米式の合理的なマーケット技法や人を使うための人材情報を豊富にする。③新製品の紹介を充実させるため、編集局内に新製品室を設置、各メーカーから新製品に関する案内を集める、などとなっている。

新会社の社長には従来どおり、鹿内信隆氏が就任、これまでの資本金五百万円の日本工業新聞社は、日工出版局と名前を変えて、同社の出版業務を継続する。」(7・1付同紙)

こんな唐突な〝発展〟の記事が、素直にのみこめるであろうか。日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。ここでは、すでに、日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。

新聞という事業は、金さえあれば〝商売〟になるものではないことは、すでに幾度にもわたって述べてきている。従来から、すでに〝人〟を得ていない〝ポン工〟が、資本金を一挙に二百倍にしたからといって、それなりに(それに見合うだけ)〝発展〟するものではない。

第一、ここに報じられた「紙面刷新」なるものをみても、金をくう〝刷新〟は何もないようである。そして、機を同じうして、親会社サンケイの一部局で発行されていた、タブロイド版の、サラリーマン向け夕刊紙の「フジ」が、これまた独立して、フジ新聞社となったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現

正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どのような文意なのであろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どのような文意なのであろうか。

このナゾときは簡単である。もはや、サンケイの名前では、資金の借り入れも、融通さえもつかなくなったので、ポン工を十億円の大会社にして、その名前で親会社サンケイの資金の面倒をみよう、という、〝金繰り新聞〟である。と同時に、新聞はフジ・テレビ(ニッポン放送、文化放送とも)系列化に「夕刊フジ」を残して、フジ・グループとして老残のサンケイは見捨ててしまおうという作戦であろう。そして、大阪のサンケイは発祥地だけに、独立して大阪地方紙として残る公算が大きい。

それほどに、〝四大紙〟を誇称していたサンケイの実情は悪いのだし、東京新聞が中日新聞に吸収合併される直前と同じく、アラシを予知したネズミが、貨物船から逃げだすように、有能な人材は、どしどしサンケイを去りつつある。

さて、サンケイの実情はさておき、本論の「新聞の週刊誌化」という、体質変化にもどって、読売の紙面へと移ろう。わずか、一日だけの紙面を問題にするのは、群盲象を撫するのソシリがあるかもしれないが、あまりにも顕著な実例であるから、その傾向を認めざるを得まい。

四十四年九月六日付朝刊。夫が服役中の二十二歳の妻が、愛人のガードマンのため、二歳の女の子を殺した事件があった日の紙面である。この日は、大宮でも、十九歳の二男が両親を殺したという、血なまぐさいニュースの日であったが、私が指摘するのは、〝子殺し〟の事件の前文である。

「母とは名ばかりの親

——福生町でおきた幼女殺しは、若い人妻の、ゆがんだ愛の残酷な結末だった。

幼いわが子を、なんの苦もなく〝消す〟残忍な行為、愛と断絶。この悲しい事実をどう受けとめればいいのか。……」

この一文を読んで、私は、原編集局長の統卒する読売編集局の現状に、想いを馳せたのである。

九月八日付朝刊、婦人面。堀秀彦が「ときの目」で、この事件をとりあげている。

「……二十二歳の母親の記事。残酷だとか、非道だとか、そんな言葉はもはやこの場合役に立たない。尊属殺人とか幼女殺しとかいった言葉も、私にはピッタリこない。絶望的といったらいいのか、文字通り末世といったらいいのか」

堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。文章書きのプロがそうなのである。

そのとき、この前文を書いた「読売記者」は(多分、本社詰めの遊軍記者であろう)、何と書いたのだろうか。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どんな意味をもち、かつまた、どのような文意なのであろうか。

この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま

るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 女性週刊誌のサル真似と罵倒

正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。

この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま

るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。

だがしかし、この記事は、詩でもなければ署名記事でもない。レッキとした新聞文章なのである。五百何十万部も印刷される、大読売新聞の、社会面のトップ記事なのである。

ああ! この乱れ。このような悪文を書いた原稿が、そのままデスクの目を通り、印刷されてしまうのである。これではサンケイを嘲うことはできない。読売でさえ、このように、週刊誌のサル真似の傾向をみせている。〝どうしても新聞記者になりたい〟男のように、彼らが「新聞」に期待するものは、その高い待遇であり、カッコよさにすぎないようである。

「愛と断絶」という、この四文字は、事は小さくみえるのであるが実に、「新聞」の体質変化の具体的現れである。前述したように私の受けたデスクの教育の如きは、さらになく、多少の疑問を感じても、そのまま、この悪文を通すのであろう。

かつて、「社会の木鐸」であった新聞記者が、かくの如く、小手先きの器用さで原稿を書きなぐり、マス・プロ、マス・セールの〝一商品〟と化した新聞に拠る。〝ここが違います〟という、スーパーまがいのキャッチ・フレーズも当然である。

さらに付言するならば、この前文につけられた「狂った残暑」という見出しもまた、全く見当

外れである。これまた、週刊誌の見出しに他ならない。

かつて、原が出版局長時代、昭和三十年代のはじめの新聞週間におりからの週刊誌ブームに対して、日本新聞協会の講師となった原は、こういっている。「週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたため起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったハズだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う」(新聞協会報一三五六号)

この講演から十余年を経て、編集局長となり、完全に局内を掌握し、局長としての抱負がすべて実行可能となった現時点で、事実、新聞は増ページしているにもかかわらず、週刊誌はツブれるどころか、いよいよ花盛りである。そして、その原の部下は、週刊誌のサル真似で、「愛と断絶」などという、正体不明の日本語を、さも〝美文〟らしくトップ記事におりこみ、デスクもまた、それを見逃しているのである。

蛇足ながら、さらにつけ加えれば、同本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。「愛と断絶」を、女性週刊誌のサル真似と罵倒するのは、この本文記事もからんでのことだ。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。

刑法、刑事訴訟法をノゾきもしない、社会部記者の書く〝事件記事〟——これこそ、女性週刊

誌の社外記者たちの書く記事と、軌を一つにしており、感覚で取材し、感覚で執筆しているとしか認められないのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 そんなことをしたら今後の取材がやれなくなる

正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。

刑法、刑事訴訟法をノゾきもしない、社会部記者の書く〝事件記事〟——これこそ、女性週刊

誌の社外記者たちの書く記事と、軌を一つにしており、感覚で取材し、感覚で執筆しているとしか認められないのである。

そのミスを見落すデスク、疑問を感じない校閲(私が社会部記者だったころの校閲記者たちは、「これは間違いでしょう」「これでは文意が通りません」「これは用法上誤まりです」と、ゲラを片手に、社会部デスクに押しかけてきたものであった)、全くのところ「新聞」はすでに「新聞」ではなくなってしまったのである。

そして、この〝新聞記者魂〟は、もはや、読売や朝日などの、超巨大新聞の、編集局現場にはたずね当らず、小人数ながら、大きな発行部数をもつ、「週刊新潮」などに見られるのも、何と皮肉なことであろうか。

「週刊新潮」をひろげてみると、毎号二本ほど入っている「告発シリーズ」、「罪と罰」欄、「週刊新潮」欄、「東京情報」、「タウン」などの頁は、その批判と抵抗の精神において、新聞本来のあり方を踏襲しているようである。もっとも、雑誌らしい〝糖衣錠〟であったり、〝人工甘味料〟などを用いたりはしているが、今日の「新聞」よりは、はるかに積極果敢に、社会正義のためへの戦いを挑んでいる。

さきごろ、新潮社の社員の夫人が、身重の身体で、北海道の雪の下から、死体となって発見される、という事件があった。同社幹部と、いささか縁辺の者であったとかで同姓だったため、こ

のニュースは新聞雑誌を色めきたたせた。〝社長夫人〟と誤伝されたためであった。

この時、同社幹部は、事情が明らかでないために狼狽して、マスコミ関係各社に、同事件の不掲載方の工作をはじめだしたという。それと知った現場の記者たちは、猛烈な突きあげで、そのような〝ウラ工作〟に反対した、といわれている。「そんなことをしたら今後の取材がやれなくなる」という理由だったらしい。

幸いにも、その後、事情が明らかになって、スキャンダルではないということになり、幹部たちも〝ウラ工作〟をやめる結果となった。記者たちは、この事件を故意にスキャンダルにとりあげる社があったなら、真相を十分に納得がゆくまで説明し、それでもやるというなら、その社に対して、反撃を加えようと、体制を整えて待機していた、とまで伝えられている。

伝聞で恐縮だが、この話の真否は、取材していない私にとって、明らかではない。しかし、この〝ヤミ取引〟を中止させる、現場記者の突きあげ、取材側への十分な説明と、デマ・メーカーへの反撃準備などというのは、いわゆる週刊誌記者の、従来のあり方とは全く違って、いうなれば、あまりにも新聞記者的である。

このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。そして、読売新聞もまた、その例外 ではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 出来高払いの売文業

正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。

このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。そして、読売新聞もまた、その例外

ではない。

正力松太郎という、「偉大なる新聞人」の衣鉢を継いで、務台光雄、原四郎というコンビが、今、読売新聞の世界制覇という、歴史的瞬間へと向って、着実な歩を進めつつあることは、誰も否定できない。だが、正力に次ぐ、〝偉大な新聞人〟たらんとしている、この二人が、その任務を果し終えた時、「新聞」や、「読売新聞」は、果して、彼らが期待した通りの、「新聞」や、「読売新聞」であるかどうかは、疑問である。なぜかならば、務台も原も、あまりにもマトモな「新聞人」であるからである。

そして、私は、43年1月に書いた、「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節を想起するのである。

「国会議員の国政調査活動と、作家の資料調査活動、そして、記者の取材調査活動は、一見、同じように見えても、それぞれに、全く異質のものであるのだ。

ところが、雑文書きが記者の取材調査活動の、動きの動作だけを真似て、〝記者の取材調査活動〟らしきことをして、その結果を文章にまとめ、活字にすることが極めて多い——週刊誌の無署名記事のほとんどが、それである。

彼ら、ライターと称せられる手合は、ほとんど全く、〝記者としての基礎訓練〟はおろか、人

間としての基礎教養すら、欠けるところが多いのである。それは、活字になった事実が、雄弁に証明しているではないか。

新聞は、まだしも、新入社員に対しては記者としての基礎訓練を施すが、雑誌にいたっては、編集記者とも取材記者とも区別せず、かつ、基礎教育などは、やっていないようである。

それどころか、自社の社員として管理責任をもつべき記者を減らし、小器用なだけの、売文業者を大量に使用する。ライターもしくは社外ライターとよばれる彼らは、いうなれば、〝デモシカ記者〟である。記者デモやるか、記者シカやれない、という連中だ。これが原稿の量で収入を得るという、出来高払いの売文業だから、極めて無責任な文章を書くのは、当然であろう。

それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。

虚報、歪報をふくめての、広い意味での〈誤報〉が、報道の自由を貫き、言論の自由を守るために、大きな障害になりやすいことは明白である。そのためには、ゴシップやスキャンダルは除き、時事問題の報道には、やはり、徹底した「真実」の厳しさが要求される。雑誌であると新聞であるとを問わず、活字媒体のもつ、記録性と随時性とからみて、絶対にベストを尽して、〈誤報〉を避けねばならないのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.232-233 もっとも忌むべきものが剽窃(ひょうせつ)

正力松太郎の死の後にくるもの p.232-233 「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節。この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.232-233 「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節。この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。

しかし、報道の真否は、常に結果論なのである。毎日のスクープ『大磯の死体はホステス某女』は、確かにその時点では、事実としての動きをみせており、スクープではあったが、結果的には〈誤報〉であったのだ。ホステス某女が生きていたからである。また、〝記者としての基礎訓練〟が、十分であったかどうか、ということも結果として判断されるのである。

これは、人間が人間を裁く裁判以上に、人間が起す現象を人間が追うという、〈ニュース〉そのもののもつ宿命である。

裁判の根拠には、法律という具体的尺度があるのに対し、報道には、5Wという要素のみが具体性をもち、それらをつづるテニオハや、1Hという、人間そのものに依存する部分があるのだから、裁判以上に、〈人間〉すなわち〈記者〉の問題となってくる。

したがって、〈誤報〉を根絶することはできないが、減らすことはできよう。それが〝記者としての基礎訓練〟の徹底化であり、もっとも忌むべきものが、ひょうせつをはじめとする、意識的な〝誤報〟であらねばならない。

十二月二十二日付読売夕刊の、『東風西風』欄に、桶谷繁雄氏が〝反、体制屋〟と題して書いている。

『……しかも、そうすることによって、普通人の到底およばぬカセギをあげている人たちである。共産圏の国々はいうまでもないが、欧州の国々やアメリカでは、反権力反体制の姿勢をとるため

には、相当の覚悟、決心を要する。そうすることは、毎月の収入にも大きく影響するからである。ところが、日本は逆で、そういうのがカッコいいことになる。……』

反体制屋ともよばれるべき、一群の人々のマスコミ活動を指摘されているのだが、それこそ、一二〇パーセントともいえる、この〈言論の自由〉! 自由に伴う義務と責任とが、〈誤報〉を減らすことを、私たちに命じている」

この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。

今、本稿を書くに当って、読み直してみると、いささか、じくじたるものがある。ほぼ、二年前の文章でありながら、時代の移り、人心の流れの急激さに、私が定義した「新聞記者」なる職業人も、現実に変ってきてしまっている不安を覚えるから、なのである。前述したように、「週刊新潮」のあり方に、本来の意味での「新聞」を認めるならば、この一文の中の、新聞記者と週刊誌記者との叙述の位置を、逆にしなければならない時代になっているようである。しかし、それでも、読売は確実に伸び、発展しつつある。務台—原体制下に。……