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正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。

といっても、私は暴力団の一味ではない。反対に、警視庁が指名手配した五人の犯人たちを、我が手で一網打尽にして、一大スクープをものしようと考え、まず、その一人を捕えたのが、「犯人隠避」罪に問われたのであった。

それからまた、浪々の身となる。愛する女を、愛するが故に諦める。あの、男の心意気である。私が退社せねば読売に、〝惚れた〟読売に迷惑がかかるのだ。

そして十年。諦めた女は、大家の奥様となって、その家風に馴染み、好むと好まざるとにかかわらず、昔のおもかげすら見出せない違う女に変っていった。しかし、それが〝女〟(新聞)の宿命なのである。

私は、私を産み、私を育ててくれた、母なる読売新聞の、その昔のおもかげを求めて、昭和四十二年の元旦から、自力で小さな新聞「正論新聞」を発行した。そして、その新聞はいま育ち盛りなのである。

読売を退社して、私ははじめて、新聞を客観的にみつめる〝眼〟を持った。そこには、矛盾もあれば、過誤もあった。科学として体系づけられた「新聞学」が、新聞の実態の変化に追いつけないほどの、変移すら起こっていたのである。

こうして私は、読売新聞への私の愛情、大きな意味での、新聞への愛情に駆りたてられて、小さな「正論新聞」での実験的試みを通しながら、新聞の体質の変化をまさぐり、〝生きている新

聞論〟を執筆しよう、と考えるにいたった。それが、「正論新聞」に連載している「現代新聞論=読売新聞の内幕」である。すでに、「朝日新聞の内幕」は、昨年秋から、月刊誌「軍事研究」に連載ずみで、読売のつぎは毎日へと続く予定である。

さて、本筋へもどって、なぜならばの項に入らねばならない。

なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。しかも、プロ野球があれほど多くのスポーツ紙を興隆させ、テレビもまた花盛りで、スポーツ面、テレビ面が、全新聞紙の主要頁になっている現状をみる時、その人を葬送するのに読売新聞が全紙面を埋めても、何ら奇異とするにあたらないからである。

奇異とするに当たらないばかりではない。読売のつい先ごろまでの、いわゆる〝正力コーナー〟なる紙面を考える時、そして、読売の今日の隆昌を見るならば、「社主」と自ら呼号した正力松太郎のために、最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟をつくってあげることは、人間社会の礼儀として極めて自然なことであるからだ。そしてそれが、正力松太郎という偉大なる新聞人の、桎梏から解放された読売人としての、最後のおつとめではなかったか。

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 私はただ一人で正力さんから辞令を頂いた

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある
正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

私が今日こうして、一本のペンをもって、口に糊することができるのも、読売新聞あればこそであり、その読売の先輩、同僚諸氏の薫育指導、切磋琢磨のおかげである。しかし、それは私情である。私情、私生活では、先輩として礼を尽くし、敬愛するところがあっても、新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質があるのだが、それは、後述することにしよう。

そして、私は私なりに、この書のはじめで、正力さんへの追憶の一文を捧げたいと思う。

正力〝社長〟の辞令

ちょうど工場へ入稿の日、ニュースが正力さんの、突然の訃を伝えていた。私は徹夜で原稿を書いた朝だったが、一瞬、ハッとして筆を止めてしまっていた。

——私が、正力さんの追憶などを書くのに、その任でないことは明らかである。だが、入稿の日だったので、どうしても、書かないではいられない気持になって、全二段の広告欄をはずし、そこに、この原稿を入れる手配を取ってしまっていた。

昭和十八年十月一日。戦争中の半年の繰りあげ卒業で、九月に卒業した私は、月末の数日を郷里の盛岡市に遊んで、三十日夜の列車で上京した。ところが、十月一日からのダイヤ改正で、真夜中になると、列車は時間調整のため、途中駅で停ってしまった。一日朝九時からの読売の晴れの入社式には、どう計算してみても間に合わない。一応、電報だけは打とうというチエは浮んだ。

社に着いたのは、もう十時を回ったころだった。岡野敏成人事部長に伴われて、私はただ一人で正力さんから、辞令を頂いた。「見習社員ニ採用、社会部勤務ヲ命ス」とあるその辞令は、スクラップ・ブックに貼られて、今でも手許にある。

そのまま、社会部にいって、電話取りから始まったのだが、その当時のことを、私が読売を退社した昭和三十三年十二月に出した「最後の事件記者」(実業之日本社刊)には、こんな風に書いている。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。