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最後の事件記者 p.454-455 岩手銀行は倒産し母は預金を失った

最後の事件記者 p.454-455 「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。
最後の事件記者 p.454-455 「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。

そして、新聞記者という仕事への、直接の示唆は、日大芸術科時代の三浦逸雄教授であった。そしてまた、私の「新聞記者開眼」を裏打ちして下さったのは、母の従兄でもある小野清一郎先生であった。先生は、私の事件の弁護人を引き受けて下さったが、その時にこういわれた。
「文芸春秋の記事を読みましたよ。あのなかに、『オレも果たしてあのような記事を書いたのだろうか」という、反省のクダリがありましたネ。あの一行で、あの文章が全部、生きているので

す」——このように、私は、良き師、良き先輩、そして、ここに名を挙げるいとまもない多くの友だちたちに、恵まれて、今日があるのだ、と思う。

また、「職業的倫理」については、少年の日の、母の一言であったろう。この母は、八十七歳、米寿を控えてなお、末子の私のことを案じて、死ぬにも死ねない心境らしい。裏返せば、私は〝孝行息子〟ということか…。

医者だった夫に早逝された母は、三十三歳の若さで、六人の子を抱えて未亡人になった。夫の長兄のすすめで、遺産の大半を、故郷の岩手銀行に預金した。やがて、昭和八年の金融パニックで、岩手銀行は倒産し、母は預金を失った。その時から、母の苦闘の歴史が始まる。

母の妹は、岩銀の頭取に嫁していた。銀行は倒産して、預金者は被害を受けたが、頭取家は、事前に財産の名義を変えていて、被害は僅少だった。しかし、母は表立っては、そのことをいわなかった。

私が、中学生になって、自分の家の歴史に興味を覚えたころ、母は、私にだけソッといった。「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。

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新聞の週二回刊という多忙のなかで、「正論新聞社出版局」の発足を決め、その処女出版にこの本をえらんだ。しかし、法人の設立もまだ全然だし、販売のルートもできてはいない。

その時、日本民主同志会の仲間である、恒友出版の斎藤繁人社長から、援助の手がさしのべられて、「発売元」という形で、本作りから販売まで、すべて面倒を見て頂くことになって、とにもかくにも、「正論新聞社出版局」はスタートした。斎藤社長には、末筆ながら、お礼を申し上げておく。

当分は、恒友出版のお世話になりながら、正論らしい〝意欲的な出版〟を目指して、努力をつづけてゆきたい、と考えている次第。本紙同様のご指導、ご叱正をお願い申し上げたい。

なお、収めた三篇のうち巻頭の「新宿慕情」だけは、共同通信社「記者ハンドブック」による送りがなを用いているので、他の二篇とは違う。しかし、「正論新聞」をはじめ、現在は、この用法に統一していることをお断りしておきたい。

正論新聞十周年パーティーを旬日に控えて

三 田 和 夫