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正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 私はただ一人で正力さんから辞令を頂いた

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある
正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

私が今日こうして、一本のペンをもって、口に糊することができるのも、読売新聞あればこそであり、その読売の先輩、同僚諸氏の薫育指導、切磋琢磨のおかげである。しかし、それは私情である。私情、私生活では、先輩として礼を尽くし、敬愛するところがあっても、新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質があるのだが、それは、後述することにしよう。

そして、私は私なりに、この書のはじめで、正力さんへの追憶の一文を捧げたいと思う。

正力〝社長〟の辞令

ちょうど工場へ入稿の日、ニュースが正力さんの、突然の訃を伝えていた。私は徹夜で原稿を書いた朝だったが、一瞬、ハッとして筆を止めてしまっていた。

——私が、正力さんの追憶などを書くのに、その任でないことは明らかである。だが、入稿の日だったので、どうしても、書かないではいられない気持になって、全二段の広告欄をはずし、そこに、この原稿を入れる手配を取ってしまっていた。

昭和十八年十月一日。戦争中の半年の繰りあげ卒業で、九月に卒業した私は、月末の数日を郷里の盛岡市に遊んで、三十日夜の列車で上京した。ところが、十月一日からのダイヤ改正で、真夜中になると、列車は時間調整のため、途中駅で停ってしまった。一日朝九時からの読売の晴れの入社式には、どう計算してみても間に合わない。一応、電報だけは打とうというチエは浮んだ。

社に着いたのは、もう十時を回ったころだった。岡野敏成人事部長に伴われて、私はただ一人で正力さんから、辞令を頂いた。「見習社員ニ採用、社会部勤務ヲ命ス」とあるその辞令は、スクラップ・ブックに貼られて、今でも手許にある。

そのまま、社会部にいって、電話取りから始まったのだが、その当時のことを、私が読売を退社した昭和三十三年十二月に出した「最後の事件記者」(実業之日本社刊)には、こんな風に書いている。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 正力さんに必死の想いで手紙を

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた」

日大を出る時、私はNHK、読売、朝日の三社を受験し、朝日だけ落ちた。NHKには「採用辞退届」というのを送って、読売をえらんだのだった。そして、読売をえらんだことは、入社してみて、誤っていなかったのだと、自信を固めていた。

正力さんとは、口をきいたのは、辞令を頂く時の一言、二言だけだった。それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

高木健夫さんが、「読売新聞風雲録」に書かれている「社長と社員」を読むと、正力さんの人柄が大変に偲ばれる。昭和三十年春に出たその本を、私は警視庁記者クラブ詰め時代に読んだものだが、その先輩たちを羨しく感じた。

昭和十八年ごろの正力さんは、まだ高木さんの書かれた通りの、〝正力さん〟だったろ うと思う。それなのに、入社早々の私には、先輩たちのような、正力さんとの〝交情のものがたり〟がないからだ。

昭和二十二年秋、復員してきた時には、正力さんは巣鴨で、しかも、銀座の本社は戦災の復興中。読売は、今の読売会館、有楽町のそごうデパートの場所にあった報知の建物に入っていた。私の顔を覚えていてくれた竹内四郎社会部長が、「オーッ」とうなって「社会部はココだ」とばかりに、手をあげて呼んでくれただけであった。

やがて、出所はしてこられたのだが、公職追放。読売は社主という立場で、以前のように、編集局の中央に立って、「誰彼れとなく話しかけ」る状態ではなくなっていた。私と正力さんの距離はさらに遠くなり、たまさか、社の行事や日本テレビ関係の取材で、身近くいることはあっても、高木さんが書かれたような〝正力さん〟ではなかった。

社会部の記者たちの間でも、ある時は〝ジイサマ〟であったり、ある時は〝ジャガイモ〟であったりした。もはや、〝正力さん〟ではなかったのである。

昭和三十三年に社を去った私ははじめて「新聞」を、そとからながめる機会に恵まれたのである。そしてまた、「読売」をも、その眼でみつめたのだった。昭和四十年の秋、私はいたたまれない想いで、いわゆる〝務台事件〟後の読売の現況を憂えて、「現代の眼」誌に、読売批判の一文を草したのである。これが、現在の正論新聞創刊の動機ともなるのであるが、私は〝遠くなった〟正力さんに必死の想いで手紙を書いたつもりであった。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。