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編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず!

編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず! 平成11年(1999)3月18日
編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず! 平成11年(1999)3月18日

■□■ 売買勳、いまだ死なず! ■□■第1回■□■  平成11年(1999)3月18日

中村正三郎法務大臣がようやく辞表を出して、この人物の正体があまねく全国民の知るところとなった。だが、どうしてこのような人物を法相に据えたのか小渕首相の人事を疑わざるを得ない。法相は首相に次ぐ序列2位の要職である。

むかし田中角栄首相の時、小宮山重四郎という郵政大臣が生まれた。彼は平和相互銀行のボス、小宮山栄吉の弟である。当時「角さんに五億円献金して大臣になった」と噂された。平和相銀はやがてツブれ、住友銀行に吸収されたが、当時の総務部長(故人)が、私に「あの五億円は銀行の金を持ち出したものだ」と語ったのをメモしていた。

やがて平和相銀の「金屏風事件」というのが表面化し、竹下首相の青木秘書が地検特捜部の追及に出頭予定日前夜に自殺して果てた。このときの不明分のうち30億円は竹下から中曽根首相の禅譲代として献金されたといわれている。郵政大臣が5億円なら、総理大臣なら30億円というのはうなずける金額である。

さて、あのようにオソマツな法務大臣が出現してみると中村正三郎が大金持ちなだけに派閥会長の三塚博と小渕首相の双方に、億単位の献金があったのではないかと邪推したくなる。中村スキャンダルが内部告発としか思えないものばかりだから法務官僚たちがサシたとも考えられるが、そのような人物を金持ちだからといって法相に据えるほうが怪しい。

自民党もいつまでもこんなことを繰り返していてはどうしようもない。第一この時代に、いまだに「大臣」とはナンだ? 国民の公僕である政府の長が、“大臣”とは時代錯誤もはなはだしい。行政改革で省名を変える機会に、大臣の呼称も廃止すべきだ。そうでなければ、“大臣病患者”が金で買いたがるばかりではないか!  平成11年(1999)3月18日

編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚

編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚 平成11年(1999)4月10日 画像は三田和夫40代(正論新聞初期のころ)
編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚 平成11年(1999)4月10日 画像は三田和夫40代(正論新聞初期のころ)

■□■検察NO.2の失脚■□■第5回■□■ 平成11年(1999)4月10日

月刊「噂の眞相」誌の報じた、則定衛(のりさだまもる)・東京高検検事長の女性スキャンダルは、5年前の事件にもかかわらず、各方面に大きな衝撃を与えて、本人の辞意表明にまでいたった。(10日現在)

私はこのニュースに、読売の司法記者時代に直面した、検察の派閥対立と抗争を昨日のことのように思い出した。この事は書き出せばキリがないので、ある検察首脳のひとりを紹介したい。

東京高検次席、京都検事正、大阪検事長、最高裁判事、同長官を経て、さきごろ亡くなった岡原昌男氏。

さきの派閥対立は、一般には戦前の特高検察の流れの公安検察と、戦後の経済混乱で勃興した経済検察との対立と、とらえられているが、私は違う意見である。検察の正統派と政治に癒着する権力派との戦いと見る。前者の代表が岸本義広東京検事長、後者は馬場義続法務次官。悪名高い“馬場派の殺し屋”河井信太郎特捜部長を抱える。

馬場を切るために、総長を諦らめ代議士となり、法相となってと転換した岸本の選挙違反を、馬場は徹底追及して起訴した。岸本は失意のうちに逝き、その次席だった岡原は、実に7年間も京都検事正のままだった——私は「正論新聞」でこの事実を叩き、馬場の次の総長が岡原を大阪検事長とした。

岡原は定年前に最高裁判事の検察ワクに移った。馬場の偏向人事を正した総長の思いやりだったろう。そして長官へと進む。検事出身判事が長官になるとは、異例中の異例であるが、他の判事たちからクレームが出なかったことが、岡原の人格すべてを物語っているではないか。

検事も若い時にはその理想に燃えて、正義のためにのみ行動するが、年をとるとともに現実的になり、権力におごって自己中心的になり、金と女の誘惑に溺れながら、それを自己規制も批判もできなくなる。そこで、その人自身の人間性が出てくるのである。新聞記者とて、企業人とて例外はない。則定事件が5年前のことだろうが、どうして、今ごろ表面化したのかなどは、事件の本質には無関係である。

権力とそれに近い立場にある者に求められるのは、高い倫理性である。私はその例として、岡原昌男を想起した。長い記者生活で、則定のような人生の浮沈のドラマを見つづけてきた。三越の岡田茂社長の「なぜだ?」が、あれほど人口に膾炙(かいしゃ)されながら、則定官房長(当時)にはなんの教訓にもならなかったのだった。 平成11年(1999)4月10日