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編集長ひとり語り第59回 流出疑惑、ロシアが浮上!

編集長ひとり語り第59回 流出疑惑、ロシアが浮上! 平成13年(2001)10月24日 画像は三田和夫17歳(中央坊主メガネ・ネクタイ府立五中1938.11.01 上野家発行『七つ星』より)
編集長ひとり語り第59回 流出疑惑、ロシアが浮上! 平成13年(2001)10月24日 画像は三田和夫17歳(中央坊主メガネ・ネクタイ府立五中1938.11.01 上野家発行『七つ星』より)

■□■流出疑惑、ロシアが浮上!■□■第59回■□■ 平成13年10月24日

このタイトルの見出しが出たのは、「炭疽菌、議会を直撃。組織テロ濃厚、すくむ米」という「核心」欄の解説記事の後半、さる10月19日の東京新聞朝刊であった…。それを読み終わって、私は、また、50年前の昭和20年8月14日のことを想い出した。

終戦直前の6月、北支派遣軍第117師団の私の部隊には、落胆の雰囲気がみちみちていた。米軍の日本本土上陸に備え、三重県四日市市周辺に帰還する予定であったが、中隊の一部が、共産八路軍討伐からまだ帰らず、部隊の集結が遅れ、満ソ国境の部隊が四日市へ移り、われわれはその後釜として、国境付近の白城子に移駐することとなった。師団司令部はすでに白城子にいっていた。

その後を追って、7月には白城子移駐の命令が、すでに出ていた。8月8日、山海関を越え、乃木大将の詩で有名な錦城に9日の朝早く着いた時、駅頭にあふれた日本人婦女子の形相を見て驚いた。それは「ソ連侵攻」を物語っていた。満州国の首都・新京(長春)に向かう上り列車は私たちだけで、スレ違う列車には、関東軍の部隊と日本人婦女子が満載であった。「今ならまだ朝鮮経由で釜山まで行ける」というのが、その連中の合言葉だった。

「ナンダ、オレたちは満ソ国境へ行こうとしているのだぞ。これじゃ、自殺行為だ!」そして列車は、避難民をかきわけかきわけという感じで、8月13日の夜、新京駅に着いたのだが、白城子の師団司令部とは、すでに連絡がとれず、列車は新京で打ち切り。我が205大隊は、首都防衛司令部の指揮下に編入され、14日昼頃から、関東軍司令部の一室で、将校以上に対ソ戦のレクチャアさえ開かれた。力説するのは若い少佐参謀。まわりを見ると、現役兵は205大隊の将校だけで、大半はサーベル式軍刀を持った老少尉や老中尉ばかり。8月上旬に召集された予備後備役の将校たちであった。

レクのあと、私は質問した。「下り列車には、日本軍の、まだ戦えそうな部隊がいた。ナゼ、彼らは南下するのか」「関東軍の決定で朝鮮と満州の国境付近の山岳地帯に、大本営を設け、天皇陛下をお迎えして、徹底抗戦を図ることになった。そのための兵力移動である…。もっとも、細菌戦の石井部隊などは、ソ連に研究成果を奪われまいと、早くから移動していた。これも関東軍命令である!」

若い少佐参謀の対ソ戦術とは、集束手榴弾を一兵一個、それでソ軍戦車一輌をツブせ、というのである。手榴弾を五個か六個、ひもで縛り付けて、自爆しろ、ということだった。興奮していた彼は、つい、石井第731部隊の“敵前逃亡”の弁解を口走ったのだろう。

約2年間の俘虜生活を終えて、昭和22年11月に読売新聞に復職した私は、舞鶴から帰京したその足で、読売資料部に行ってずっと心の重荷になっていた、第731部隊石井細菌部隊の“敵前逃亡”について、この2年間の新聞報道を調べてみた。

石井四郎軍医中尉は、日本の敗色が明らかになった時点で、細菌戦の研究成果を、アメリカに提供する密約を進めていた。当時の研究は、臨床例の一番多い日本が、米ソに比べて、はるかに進んでいた。だから米国は、南朝鮮まで逃げてこい、とすすめていた。ソ連を仮想敵国に研究していた石井中将は、ソ連に行ったら殺されると確信していたのだ。米ソは南北から朝鮮半島に入り、38度線で分割した。石井部隊の本拠は満州にあったから、破壊したり焼いたりしたが、間に合わずに多くの資料をソ連に押さえられた。ソ連は、1945年12月25日から30日にかけ、ハバロフスク市で「細菌兵器の準備及び使用の廉」で起訴された、元日本軍人12名の公判を行った。その公判記録は、モスクワの国立政治図書出版所から公刊され、それを日本語に訳した788ページの詳細な文書がある。

12名の被告の内訳、関東軍司令官、軍医部長、獣医部長、第五軍軍医部長の4名は、いずれも将官だが、当事者外である。第731部隊では、細菌戦部隊部長・川島軍医少将、課長・柄沢軍医少佐、部長・西軍医中佐、支部長・尾上軍医少佐の4名。第100細菌戦部隊研究員・平櫻中尉、部隊員・三友軍曹と、第731部隊第643支部・菊池見習衛生兵、同部隊第162支部・来嶋衛生兵の4名が現場職員という内訳であった。

「三友軍曹は、炭疽菌、鼻疽菌などの細菌繁殖に積極的に従事してきた」(同書625P)

この厚い書物を見ても、炭疽菌の専門家として上げられるのは、三友軍医ひとりだ。そして、この軍事裁判の判決は、いずれも矯正労働収容所入りで、25年、20年、18年、15年、12年、10年で、被告の終わりの2人は、3年、2年に過ぎない。炭疽菌の三友は15年だ。

さて、東京紙の記事によると、炭疽菌研究は、英国では50年代、米国では60年代で中止されている。しかし、イラクで80年代に開発され、ロシアでは92年まで続いた、とあるし、失職した科学者達が、テログループと合流した恐れが強いという。

で、さきほどの公判書類を見ると、通訳、弁護人、証人、鑑定人などで、100名ほどもカタカナ名前のソ連国籍人が登場してくる。名前からロシア人かイスラム人かは不明である。ソ連が分裂して、ロシアとイスラムに分かれた時期と、ソ連の炭疽菌研究継続の時期とが、非常に近いことも、示唆的である。

日本軍の研究を、米、ソ(ロ)が分割しあったという因縁に、軍隊のない日本の現実が引きずりこまれない幸運をよろこんでいる。 平成13年10月24日