知ソ派が戦後親ソ派に転移」タグアーカイブ

迎えにきたジープ p.014-015 日本軍の対ソ作戦資料

迎えにきたジープ p.014-015 Eighteen groups of armed intelligence agents have been deployed along the border between the Soviet Union and Manchuria as a squadron to investigate the Soviet Union's intention to enter the war.
迎えにきたジープ p.014-015 Eighteen groups of armed intelligence agents have been deployed along the border between the Soviet Union and Manchuria as a squadron to investigate the Soviet Union’s intention to enter the war.

キング・オブ・マイズル

一 関東軍特機全滅せり

日本陸軍の建軍以来の仮想敵国はロシヤであった。だからこそロシヤ——ソ連邦に関する研究と調査とは全く完璧であった。陸士出身の正規将校で親ソ的な人が多いのも、ソ連研究が徹底して知ソ派になり、それが戦後に親ソ派に転移していったものであろう。

この日本軍の対ソ作戦資料は、その全諜報網をあげて作られたもので、もちろんその中心になったものは、関東軍特務機関である。正式の名を関東軍情報部といい、本部をハルビンにおき軍総司令官に直属していた。

支部は、牡丹江、チチハル、ハイラル、黒河、ヂャムス、奉天、興安、通化、アパカ(内蒙)、承徳の十カ所にあり、本部がハルビン特機と称しているのと同様に、それぞれの地名を冠して

〇〇特機と呼ばれていた。

その創設はシベリヤ出兵直後の大正七年、林大八大尉がハルビンに乗りこんできたのがはじまりといわれるが、それから約三十年、三千名の人員をようして、対ソ諜報を行ってきたのだから、その成果である資料のほどもうなずけよう。

だが、この特務機関も、敗色ようやく決定的となってきた二十年八月一日、改編命令が出された。これが関東軍特警隊令である。憲兵と特機とを合併して、第一隊が牡丹江、第二隊がハルビン、第三隊が奉天におかれた。

同時にソ連参戦の意図を探るため「ハ」作業なる命令が出された。これは武装諜者で、強力偵察をしようというのである。

「ハ」作業用の謀略部隊として、吉林を基地に機動旅団が設けられた。そして、十八組の武装諜者が、国境線一帯に投入されたが、帰ってきたのはただ一組、一切があのソ連侵攻のドサクサの中で消えてしまったのであった。これが関東軍特機、最後の仕事であった。

だが、対ソ資料は関東軍だけではない。樺太の第五方面軍、駐蒙軍もまた、それぞれに特機を動員して、スパイ戦をくりひろげていたのだ。これらの全部を統轄していたのが、中央の参謀本部第二部である。