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迎えにきたジープ p.060-061 仕事は情報です。拒否すれば

迎えにきたジープ p.060-061 "You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?"
迎えにきたジープ p.060-061 ”You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?”

話は日本の天皇制に進んで峠に辿りついた感があった。私は、天皇制がロシヤのツァー制とは類似点はあるが本質的に異なること、ツァーはロシヤ人にとって圧制の張本人であり怨嗟の的であったが、天皇は日本人ことに私たち軍人にとっては慈愛の化身であること、共産主義者がその最高のモラルとしている「献身」ということが終戦時の天皇にはっきりした言動として示されたこと、などを説明して、以上の点から戦後ソ連が天皇を戦犯に擬したり「日本新聞」で天皇制だけでなく天皇個人をも非難するのは堪えがたい不満を覚えると答えた。

『それはあなた個人の意見ですか?』

『そうです。だが旧日本将校ならば恐らく同様だと思います』

『それでは将来もし日本で革命が起ったときにあなたはどうしますか?』

『私はもちろん日本人の最大多数の意志にしたがいます。しかし、天皇をどうこうということは日本では起らないと思いますし、万が一そんなことになったら私は断然天皇のため銃をとります』

通訳がこの「銃をとります」を現在形に訳したため、大佐は一寸眉をひそめたが、また仮定の形に改めたので納得したようであった。この日は、このほかに日本軍隊の生活や太平洋戦争などについて雑談をかわしてタ方私はバラックに帰った。この間、大佐はただ聞くばかりで自分の意見は全然はさまず、通訳の中尉も時々用語のメモを取るだけであった。

翌日、私は再び大佐に呼ばれた。今度は私の家庭の事情を細かくきいて、私の妻が終戦時北鮮に疎

開していたことを知ると、かれは私に呼びよせてやろうと、いいだした。

『いや結構です、もう日本に帰っているでしょうから……』

冗談じゃないと、私はあわてて断った。正午近くなって突然、大佐は、真面目な面持でこう切りだした。

『そこで、私はあなたにお願いがあるのだが……』

『どんなことでしょうか』

『あなたは日本にとってと同様にソ連にとっても有能なんです。それで将来帰国後ソ連に協力してもらえないでしょうか』

『……』

『仕事はもう多分あなたもおわかりのように情報です。強いてやれとはいいませんが、これを拒否すればあなたの前歴から見ていつ帰国できるかわからないし、帰国できないかもしれません』

『……』

『すぐにとはいいませんから、午後の三時にここに来て返事してください。よい返事をお待ちしています』

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚 われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。

迎えにきたジープ p.062-063 早く帰って妻や母に会いたい

迎えにきたジープ p.062-063 "I will cooperate." The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.
迎えにきたジープ p.062-063 ”I will cooperate.” The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚

われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。だがそのためにはソ連の「スパイ」にならなければならない。自分だけ先に帰ってしかも「スパイ」の誓約を果さないという手もあるが、それは、なにをされるかわからないし、また私の性分としてそんな卑怯な真似はできそうもない。といって帰りたくないのか、いや帰りたい。早く帰って妻や母に会いたいし、新しい生活を築きたい。それじゃ、あっさり帰ったらいいじゃないか。

私の考えが堂々廻りしているうちに、食堂の壁に取りつけられた手廻し時計はもう三時になってしまった。よし当ってみよう、道は開けるだろう、と私は協力の腹を決めて大佐の室をノックした。

『協力します』

『そうですか、それはよかった。改めて感謝します』

これで私の運命は半分ばかり開けそうになった。大佐はあからさまに喜びの色を顔にあらわして、明朝また来るように私に告げた。

次の日、私は大佐と中尉が準備した誓約書と声明書に署名し、帰国後の予定住所、連絡上の合言葉などを協定した。いずれもきわめて形式的なものであったが、ただこの日の通訳が例の語学生の一人であったため、かれが『学』のあるところを示そうとして、

憶良らはいまはまからむ子泣くらむ
そのかの母も吾をまつらむぞ

という万葉の古歌を合言葉に選んだのには、私も苦笑せざるを得なかった。

その日の午後は、大佐から私に今後とも「民主運動」に近づかないことなどの注意があった後、私は大佐の小宴に招かれた。

大佐にすすめられるままに強烈なヴォッカやコニャックをしたたか飲んで、酔歩蹣跚の態で私がバラックに戻ったら、仲間の中隊長が不審顔で私にたずねた。

『あやしいぞ、いいことしたな』

私は、これこそ緻密なようで尻尾の出るソ連式の「間抜け」だと苦笑しながら毛布を頭からかぶって寝てしまった。

六 細菌研究所を探れ!

また、CICが舞鶴で摘発した二人の幻兵団員が当局へ提出した答申書(原文のまま)をみてみよう。

▽斎藤氏の場合

一九四五年十月三十日、私の大隊はチェレムホーボ第31の2(マカリオ)収容所に到着、爾来独逸より輸送し来れる、人造石油装置部分品の卸下作業に従事中、当年は異状なし。

一九四六年一月初め頃、或る日ソ連軍一将校(少尉)私達の部屋に来り、エンヂニャーは居ないかと聞けり。部隊長(光延克郎中佐)は一人居る、それはこの斎藤である、と答えられたり。このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。