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迎えにきたジープ p.070-071 日本新聞社より反動と見なされ

迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.
迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.

当時(四月)ナホトカは内地帰還の同胞で入る幕舎もなく、屋外に数日も寝なければならない状況であった。これを整理する為には帰還部隊の中より人員を選り出し、出張作業に出すことになり、私達はその指揮官要員としてであった。そして一部の将校は指揮官となり出張作業に出て行き、私達は残された。そして一日千秋の思いで内地帰還の日を待った。私達は何かにつけて日本新聞社より反動と見なされた。そして私達は到底帰れそうにもなかった。

六月の中旬、私達はスーチャンの将校収容所に送られた。しかし如何なる理由なりしか同所では私達を受取ってくれなかった。それで又ナホトカに帰り今日に至ったのである。そして九月二十日突如内地帰還の命に接したわけである。ナホトカに於ても又帰還の船に於ても、私はかのノロワシキ悪夢の如き件につき幾度か煩悶した。道には二つしかなかった。自決するか、それとも上陸したら直ちに警察に届け出るか——かの命令を毛頭履行する意思のない私には——そして私はこの第二の手段をとり直ちに自首した次第である。

▽山根氏の場合

一九四五年十一月三日私の大隊はイルクーツク第32の12収容所に到着、山中の伐採作業を行い過度の労働と粗悪なる給養の下で全員の約三分の二が倒れた。その為全員は伐採作業に対しては極めて恐怖の念を持っていた。

一九四六年夏第10収容所である肉工場作業に転用されたので、やっとホッとし健康も逐次に回復した。

私は今迄大隊付であったが、一九四六年十一月五日大隊長を命ぜられた。そして十二月十日帰還の為、中間集結地であるマルタ収容所に集合した。

一九四七年一月二十六日深夜、地区司令官の呼出しであると称し、六一六号家屋に連行せられた。そこにはシュザイエル大尉と通訳二名がいて身上調査を受けた。そしてそれは今迄にない微に入り、細に入ったものであった。

氏名 山根乙彦 二九才

家庭の事情 父の職業 大学教授

父母の友人の氏名、住所

本人の友人の氏名、住所

軍歴 某旅団司令部 獣医大尉

以上の様な調査は更に四回にわたり夜十一時より午前二時頃迄行われた。

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。

2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。