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正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 私の記憶にある正力さん

正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ
正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ

正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が…

私が、この稿をまとめることを想いたったのは、正力さんが亡くなり、そのお葬式があった日のことである。

昭和四十四年十月九日。その日は、朝からどんよりとした曇り空だったが、とうとう十時ごろから降りだしてしまった。傘も持たずに銀座に出ていた私は、レインコートのエリを立てて、街角の赤電話から、読売系の新聞店である啓徳社の田中社長に、面会の約束をとろうとして電話したのだった。

「正力さんが暁け方に亡くなられたンですよ。ですから、予定が立たないンで……」

田中社長のその言葉に、私は「エッ⁉」といったきり、しばらく絶句していた。

雨は顔を打ち、エリもとに流れこむ。——その時、私の頭の中を走馬燈のように駈けめぐっていたのは、私が昭和十八年の十月一日に読売に入社した日の、横山大観の富士山の絵を背にした、元気いっぱいな正力さんの顔であり、戦後の、「社主」になってからの、やや老けこまれた

あの姿、といったように、私の記憶にある正力さんであった。

そして、その走馬燈がやがてピタリと停った時、その〝絵〟を私は見たのである。

それこそ、全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだのであった。

なぜならば……。と、書き進めてくると、読者の理解を助けるため、私の経歴を語らねばなるまい。

東京五中(現小石川高校)から、浪人したり、上智大学新聞科、日大芸術科と渡り歩きながら、ジャーナリストを志した私は、NHK、朝日、読売と三社の入試を受けて、読売をえらんだのだった。

それから、昭和三十三年七月に、自己都合退社をするまで十五年間も、私は社会部記者一筋で読売の世話になったのである。〝自己都合退社〟といっても、他にウマイ口があって読売を追ン出たのではない。

当時、検察庁や裁判所を担当する、司法記者クラブ詰めであった私は、その一月ほど前に銀座のビルで発生した、渋谷の安藤組一味による横井英樹殺害未遂事件に関係して、警視庁に逮捕されるハメになったから、責任をとって辞職を願い出たのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 正力さんに必死の想いで手紙を

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた」

日大を出る時、私はNHK、読売、朝日の三社を受験し、朝日だけ落ちた。NHKには「採用辞退届」というのを送って、読売をえらんだのだった。そして、読売をえらんだことは、入社してみて、誤っていなかったのだと、自信を固めていた。

正力さんとは、口をきいたのは、辞令を頂く時の一言、二言だけだった。それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

高木健夫さんが、「読売新聞風雲録」に書かれている「社長と社員」を読むと、正力さんの人柄が大変に偲ばれる。昭和三十年春に出たその本を、私は警視庁記者クラブ詰め時代に読んだものだが、その先輩たちを羨しく感じた。

昭和十八年ごろの正力さんは、まだ高木さんの書かれた通りの、〝正力さん〟だったろ うと思う。それなのに、入社早々の私には、先輩たちのような、正力さんとの〝交情のものがたり〟がないからだ。

昭和二十二年秋、復員してきた時には、正力さんは巣鴨で、しかも、銀座の本社は戦災の復興中。読売は、今の読売会館、有楽町のそごうデパートの場所にあった報知の建物に入っていた。私の顔を覚えていてくれた竹内四郎社会部長が、「オーッ」とうなって「社会部はココだ」とばかりに、手をあげて呼んでくれただけであった。

やがて、出所はしてこられたのだが、公職追放。読売は社主という立場で、以前のように、編集局の中央に立って、「誰彼れとなく話しかけ」る状態ではなくなっていた。私と正力さんの距離はさらに遠くなり、たまさか、社の行事や日本テレビ関係の取材で、身近くいることはあっても、高木さんが書かれたような〝正力さん〟ではなかった。

社会部の記者たちの間でも、ある時は〝ジイサマ〟であったり、ある時は〝ジャガイモ〟であったりした。もはや、〝正力さん〟ではなかったのである。

昭和三十三年に社を去った私ははじめて「新聞」を、そとからながめる機会に恵まれたのである。そしてまた、「読売」をも、その眼でみつめたのだった。昭和四十年の秋、私はいたたまれない想いで、いわゆる〝務台事件〟後の読売の現況を憂えて、「現代の眼」誌に、読売批判の一文を草したのである。これが、現在の正論新聞創刊の動機ともなるのであるが、私は〝遠くなった〟正力さんに必死の想いで手紙を書いたつもりであった。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。