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新宿慕情 p.108-109 グランドピアノの傍らでの〈立ちカキ交響曲〉

新宿慕情108-109 いったい、オカマというのは、どんなことをするのだろうか。ことに、相手は〝その道〟の大家ではないか。この絶好のチャンスを逃すべきではない!
新宿慕情 p.108-109 いったい、オカマというのは、どんなことをするのだろうか。ことに、相手は〝その道〟の大家ではないか。この絶好のチャンスを逃すべきではない!

ピアノの椅子にかけたまま、先生は、両腕で私を抱え、唇を寄せてきた。

——大きな声で叫んで、逃げ出そうか?

——それとも、このまま、なすにまかせて、いるべきか?

シェークスピア劇の主人公のようなセリフが、私の脳裡に浮かんだ。

だが、つづいて、私は、驚くべき決心をしていたのだった。

——いったい、オカマというのは、どんなことをするのだろうか。ことに、相手は〝その道〟の大家ではないか。

——この絶好のチャンスを逃すべきではない。

いまになって考えてみると、当時から私は、〈旺盛なる社会部記者・魂〉の持ち主であったようだ。

同時に、私が読売新聞を退社するキッカケになった、「安藤組事件」のように、虎穴に入って虎児をつかむような、体当たり取材の精神が、双葉のうちから育くまれていたようだ。

——そうだ。チャンスだ。ここで逃げ出さずに、もう一歩踏みこんで、ナニが起こるのか、確かめるべきだぞ!

瞬間のうちに、そう判断し、決断を下した私は、まだ童貞だったというのに、この老ピアニストの唇の愛撫を、顔面いっぱいに受けていた。

彼は、私を抱いたまま立ち上がらせ、私のモノをまさぐりつつ、私の片手を誘導していくではないか。

次の瞬間、私の手は、あたたかく、柔らかいものに触れていた。

事態を認識した私は、それでも〝奇妙なエクスタシー〟におぼれながら、心の片隅で呟いていた。

つまらん! 初体験

——なんだ、つまらん! オカマなんて!

つまり、私が〝初体験〟の興奮と、〝新聞記者的好奇心〟に駈り立てられていた〈オカマの実態〉とは、単なる、センズリのカキッコに過ぎなかったのである。

大音楽家の自邸の、広い豪華な応接間の、グランドピアノの傍らでの〈立ちカキ交響曲〉は、終曲へと近づいていた。

コンダクターは、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、〝第一バイオリン〟の先端を包み、〝奏者〟には、自分の胸の絹ハンカチを取って、自分の〝タクト〟を押えるように指示した。

軽い、小さな叫びが聞えて、コンダクターの指揮棒は、こまかく震えた。……演奏は終わったのである。〝楽員〟も、コンダクターと同時に、演奏を終えたのだった——。

先生は、二枚のハンカチを手にして、バスルームへと、私を誘った。

「手を洗いなさい」と、ゼスチュアで示して、先生も、自らそうした。ハンカチは、洗濯もの入

れに投げこまれた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 私の記憶にある正力さん

正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ
正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ

正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が…

私が、この稿をまとめることを想いたったのは、正力さんが亡くなり、そのお葬式があった日のことである。

昭和四十四年十月九日。その日は、朝からどんよりとした曇り空だったが、とうとう十時ごろから降りだしてしまった。傘も持たずに銀座に出ていた私は、レインコートのエリを立てて、街角の赤電話から、読売系の新聞店である啓徳社の田中社長に、面会の約束をとろうとして電話したのだった。

「正力さんが暁け方に亡くなられたンですよ。ですから、予定が立たないンで……」

田中社長のその言葉に、私は「エッ⁉」といったきり、しばらく絶句していた。

雨は顔を打ち、エリもとに流れこむ。——その時、私の頭の中を走馬燈のように駈けめぐっていたのは、私が昭和十八年の十月一日に読売に入社した日の、横山大観の富士山の絵を背にした、元気いっぱいな正力さんの顔であり、戦後の、「社主」になってからの、やや老けこまれた

あの姿、といったように、私の記憶にある正力さんであった。

そして、その走馬燈がやがてピタリと停った時、その〝絵〟を私は見たのである。

それこそ、全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだのであった。

なぜならば……。と、書き進めてくると、読者の理解を助けるため、私の経歴を語らねばなるまい。

東京五中(現小石川高校)から、浪人したり、上智大学新聞科、日大芸術科と渡り歩きながら、ジャーナリストを志した私は、NHK、朝日、読売と三社の入試を受けて、読売をえらんだのだった。

それから、昭和三十三年七月に、自己都合退社をするまで十五年間も、私は社会部記者一筋で読売の世話になったのである。〝自己都合退社〟といっても、他にウマイ口があって読売を追ン出たのではない。

当時、検察庁や裁判所を担当する、司法記者クラブ詰めであった私は、その一月ほど前に銀座のビルで発生した、渋谷の安藤組一味による横井英樹殺害未遂事件に関係して、警視庁に逮捕されるハメになったから、責任をとって辞職を願い出たのであった。