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編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線”

編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)
編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)

■□■野村夫人と清張を結ぶ“点と線”■□■第9回■□■ 平成11年(1999)4月28日

“役者バカ”という言葉がある。修行一筋の生活から一流の俳優(主として歌舞伎)になるのだが、役者以外のことは無知で客観性に欠けることをいう。と同時に、この言葉から、学者バカ、記者バカ(例のNステの朝日記者の如く)、医者バカ(最近、歯医者が女を殺す事件が二つも起きた)、スポーツバカ(アメリカのオカマと結婚したマラソン選手)などと、各界、各層に広がり、政治バカや野球バカなども現れてきた。

サッチーとか称する牛鬼蛇神(産経紙の「毛沢東秘録」に出てくる妖怪変化)の行状を見ていると、野村阪神監督も“野球バカ”だったのだナ、と思う。離婚前にこの牛鬼蛇神にカラダを張られて妊娠させ、とうとう結婚させられてしまうからだ。これでは野球殿堂入りも危ないだろう。

彼女が社会的責任について一切話さず、油に水を注ぐとか、グッドファーザーだとか、教育の無さを丸出しにしてノシ歩いているのを見ると、つくづく“氏より育ち”の感を深くする。山口敏夫元代議士が、どうしてあのように金に卑しくなり、ついに身を滅ぼしてしまったか。父親の山口六郎次代議士が、ホントの井戸塀(井戸と塀しか財産がなかった)議員で、その死後、一家は生計が立たず山口元議員は若い時から貧乏にあえぎ、明大の学資も姉たちが働いて支払ったほどだ。野村夫人が、どんなに金に汚く、反社会的行状にテンとして恥じないのも、占領下の新橋第一ホテルのウエイトレスからスタートした人生が現在を支配しているからだ。

同じように、反社会的行動と金の汚さをテンとして恥じずに、一切無視し通した男に、松本清張がいる。

松本清張が私の処女出版の「赤い広場—霞ヶ関」から盗作していることを知って、私は手紙を出して善処を求めた。当時の私は読売を退社し、講談社の仕事で生活していたのだが、清張に連載を依頼しに行った編集局長に、「三田を黙らせたら引き受ける」といった。局長からの話に、私は激怒して仕事を蹴って、著作権法違反で告発した。その記事が各紙に報じられるや、「オレも盗作された」という人物が数人も現れてきた。私の場合は「深層海流」に盗作され、名乗り出たのは「昭和史発掘」で盗作された数人で、清張の盗作が報じられたのと、今の野村夫人のトラブルが報じられたのとまったく同じだ。

そのころ、清張は週刊朝日にいた森本哲郎に電話で相談した。彼は「三田の土俵に上がるな、全く無視しろ」と答えた。この問答を聞いていた朝日記者の話だ。東京地検次席河井信太郎は、清張の「検察官僚論」のネタ元である。私の告発は時効不起訴の処分だった。そして、文春がのちに刊行した清張全集では私からの盗作部分はすべて削除され、その担当者だった女性は、清張記念館館長である。もはや、一流新聞社にも一流出版社にも、道義も社会正義のカケラもない時代なのである。 平成11年(1999)4月28日

新宿慕情 p.092-093 「衆議院議員佐藤栄作・秘書」とあった

新宿慕情 p.092-093 まだその時には、彼が平和相互一族とは気が付かなかった。その後徳間康快が、選挙違反〝モミ消し〟に活躍した時初めて身上について知ったのだった。
新宿慕情 p.092-093 まだその時には、彼が平和相互一族とは気が付かなかった。その後徳間康快が、選挙違反〝モミ消し〟に活躍した時初めて身上について知ったのだった。

お洒落と女と

半歳の恋の終わり

——小宮山のヤツ、若いクセにイイさらりい取ってんだナ…。

当時、そう感じたことを覚えている。(私のコーヒー好きのインネン話なのだから、もう少し、つづけさせて頂きたい)

農林省での大特オチから、処分で本社勤務に上げられ、ヒマ人同士の、私と小宮山重四郎クンとが、喫茶店の姉妹のウェイトレスにウツツを抜かし、私が彼を破って、恋の勝利者になったところまで書いた。

ところが、好事魔多しというように、この恋にも、やがて、別れねばならない時がきた。

遊軍勤務一年。翌三十二年初夏には、私は、司法記者クラブのキャップとして、またまた、激烈な事件記者の世界にもどることになったのだ。

それが内示された夜、私は彼女にいった。

「社会部記者の最前線なんだ。しかも、責任者だから、いままでみたいに、ノンビリしてはいら

れない、と思うよ。寂しいけど、逢う機会が少なくなる……」

「いいわ。この、たのしい想い出を持って、私も、九州に帰るわ。……じゃ、今夜が最後ね…」

別れもまた愉し、といったフランスの劇作家の戯曲があったような記憶がある。半歳の恋の終わりは、それなりに甘美なものであった。

彼女は、喫茶店を辞めた。私の銀座勤務は、桜田門になったし、小宮山クンの姿も、いつか社会部席から消えていた。

……そしてまた一年。三十三年初夏に、私は、安藤組事件に関係して、読売を退社していた。世田谷の梅ヶ丘に住んでいた私は、フリーになって、淡島経由のバスで渋谷に出、地下鉄で都心へ出かける。

その秋のある日。淡島から乗りこんできた男の顔に、見覚えがあった。

「アッ、小宮山クンじゃない? 三田だよ。どうしているの?」

「お久し振りでございます。私いま、こういうことを……」

相変わらず、折り目正しい挨拶をしながら、彼は、一枚の名刺を差し出した。「衆議院議員佐藤栄作・秘書」とあった。

「ハイ、秘書と申しましても、ナニ、〝台所秘書〟でして……」

ヘヘーン……と、私は感じた。それでも、まだその時には、彼が、平和相互一族とは気が付かなかった——その後、彼の初出馬が、大きな選挙違反を起こし、司直の手が、落選候補の身辺ま

で迫った時、読売の同期生だった徳間康快が、その〝モミ消し〟に活躍した、という話を聞いた時、初めて、〝小宮山重四郎・元読売記者〟の身上について知ったのだった。