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赤い広場―霞ヶ関 p064-065 稚拙な怪文書をだれがバラまいたのか?

赤い広場―霞ヶ関 p.64-65 稚拙な怪文書をだれがバラまいたのか?
赤い広場ー霞ヶ関 p.064-065 Who distributed the nasty dubious documents?

「ラストヴォロフは日本に居る! 日ソ会談の背後に配下が跳る」と二段見出しを付けた本文は次の通りである。

日ソ会談の成行きが世界の注目を浴びているが、本年一月二十六日元在日ソ連代表部ドムニッキー氏から鳩山首相に手渡された、日ソ会談のノートによる申入れの背後には、昨年一月帰還を前に突如亡命したラストヴォロフ中佐と、密接な関係にあったソ連諜報部員が秘かに活動して、日ソ接近を計画した事実が次第に明るみに出て、鳩山内閣を狼狽させている。

伝えられる所によれば、政府の機密情報組織といわれている内閣調査室長木村行蔵氏が、突如四月十日、根本官房長官、前調査室経済班長同席の席上、木村室長は辞意を申出たため、田中官房次長、根本官房長官は狼狽してその前後策に苦心している。

その原因として伝えられる所は、ラストヴォロフ中佐が失踪後、それまで、ラストヴォロフ中佐の配下として、対日情報工作に暗躍していた志位元陸軍少佐と秘かに連絡していた元陸軍将校某氏、現運輸省外郭官庁在勤の某氏らが、密接な連絡の下に内閣調査室に喰い込み、巧みに暗躍していた事実が明るみに出される気運が激化したので、これが明らかにされれば、調査室幹部の職務上の大失態が暴露されることになるので、田中官房次長、根本官房長官は相当狼狽の色を深くし、旣に根本官房長官も辞意を固めたといわれ、関係者は内容の外部に洩れるのを必死に警戒している。(原文のまま)

ラストヴォロフ、日ソ交渉、志位元少佐などと、一応の小道具は揃えてみたものの、所詮は〝怪〟文書であることは、その稚拙極わまりない悪文と、徒らに誇大な表現が、事実と何の関係もなく、飛び出してきていることでも明らかであろう。

もちろん、この日付の四月二十日から一月余りを経過した今日でも、木村氏は室長を辞任もしていないし、事件そのものが進行せず、各新聞紙がこれを全く黙殺したことでも、これが単なるイヤガラセの怪文書にすぎないことが立証されると同時に、この怪文書当事者の頭の悪さ加減をも証明している。

前にあげた大事件のさいの怪文書は、ハッキリした政治的、思想的立場をとっており、文章ももっとマシで、しかも鹿地事件や松川事件のさいなどは、ジャーナリズムも取上げざるを得ないような、意外な具体的内容をもつた怪文書であった。これに比べると、この怪文書などは〝怪文書〟の名を辱しめるもので、〝醜文書〟とでもいうべきであろう。

私がここにこの文書をあえて紹介したのは、これが内調の実情を説明するのにもっとも良い例だと思ったからである。

この怪文書がバラまかれるや、当の内閣調査室はもちろん、警察庁、警視庁、公安調査庁などのいわゆる治安当局でも、その実情の調査を行った。その結果、治安当局筋の見解を綜合す

ると、この怪文書の関係者の一人として、元内調出向の通産事務官肝付兼一氏の名前が浮んできている。

赤い広場―霞ヶ関 p066-067 サウジ政府顧問に付き添う肝付兼一。

赤い広場―霞ヶ関 p.66-67 サウジ政府顧問に付き添う肝付兼一。
赤い広場ー霞ヶ関 p.066-067 Kimotsuki Kenichi accompanied the Saudi Arabian government adviser everywhere.

その結果、治安当局筋の見解を綜合す

ると、この怪文書の関係者の一人として、元内調出向の通産事務官肝付兼一氏の名前が浮んできている。

この肝付氏に関しては過去において、極めて不可解な事件の関係者として、登場してきたという事実がある。どうやら問題はその当時にさかのぼらざるを得ないので、旧聞ではあるが一応説明しておこう。

二十八年七月十七日、サウジ・アラビヤ国大蔵省顧問という肩書をもつ、一人の外国人が羽田に降り立った。アブドル・アジース・アザーム博士という。同氏は仏伊で経済学を専攻し、元トルコ、イラン、イラク各国駐在のエジプト大使であり、元エジプト士官学校教授であり、アラブ連盟事務総長の実弟で、パキスタン駐在エジプト大使の伯父という、彼の国の一流の大人物である。

同氏の来日目的は、経済交流、通商協定、工業力や商社の調査であったといわれ、数億ポンドの工業計画やら、スーダンのダム、貯水池建設計画、不毛地開墾の技術援助などのプランを持っていたようであった。

ここまではマットウな話であり、それでよいのである。同氏の来日は日ア親善として極めて結構なことである。ところが同氏の来日と同時に不思議なことが起った。

氏はホテル・トーキョー五一九号室に投宿するや、同時に病気と称して一切の面会が拒絶され、一人の日本人が影の形に沿うが如く、常に氏につきまとっていたのである。

氏は七月十七日来日以来、八月二十八日上野精養軒で開かれた、石川一郎氏らによる経団連主催の歓迎会に姿を現わすまでの四十日間というものは、殆ど全く公的な活動を行わず面会謝絶となっていた。

しかし、事実は外出もしたし、客にも会っていたが、常に前記日本人の立会なしではいささかもの動きも見せなかった。部屋つきのメイドの話によると、氏は元気であり、面会を謝絶するような病人でなかったことは明らかであった。彼女はまた氏が自由行動を許されていなかったかどうかは別として、件の日本人のいないときは全く部屋に籠っており、単独行動をとったことはないと証言した。

これでは、まさに軟禁である。そしてこの日本人は通訳としてのみ、博士を歓迎しようとする日本アラビヤ協会や、近東アフリカ貿易会の人たちにその名前を知られていた。

この男が、元陸軍中将肝付雄造氏(陸士第十九期)を父に持つ、前記肝付兼一氏であったのである。そして、肝付氏は当時内閣調査室員であった。 〝日本の機密室〟員が通訳として、外国の経済特使につきまとっており、その特使の行動が極めて不可解なものであった。