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編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する

編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する 平成11年(1999)7月10日 画像は三田和夫75歳ごろ(右側 1996ごろ)
編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する 平成11年(1999)7月10日 画像は三田和夫75歳ごろ(右側 1996ごろ)

■□■野村沙知代を告発する■□■第19回■□■ 平成11年(1999)7月10日

野村沙知代をめぐる、いわゆる“サッチー騒動”、テレビのワイドショーを中心に、もう3カ月以上も、ああでもない、こうでもないと、つづいているが、週刊誌から日刊紙へと、テレビへの批判を含めて、舞台がひろがりつつある。

だが、マスコミの、ことに日刊紙の在り方は、ジャーナリズムの本質的な在り方を忘れている。私が、第4回の本稿「小沢自由党の“馬脚事件”のこと」で、さる4月上旬に指摘したように、野村は新進党比例区(東京ブロック)第6位に位置し、第5位までが衆院議員に当選しているので、繰り上げ当選の可能性をもっているということが、重大な問題なのである。

3月当時には、都知事選のあおりで、東祥三・自由党衆院議員が、東京15区の柿沢辞職のあとに、小選挙区で立候補するということで、野村繰り上げが、にわかに脚光を浴びたのであった。もしも、東議員が、自分のことだけを考えて、小選挙区へまわるようなら、野村どころか、東糾弾をやらねば、と考えていた。野村には、「虚偽事実の公表」罪があるから、“野村どころか”と表現したのだ。

この問題は、突きつめれば、小沢一郎の政治責任にまで及ぶのである。“怪しげな女”(怪傑熟女の意訳)を、ウルトラCと称して自宅まで訪ねて、出馬を要請したからだ。

さて、9日の日テレ・ザワイドで、塩月弥栄子さんの取材に対する文書回答を見た。塩月さんは、「テレビはもっと有意義な番組を作るように…」と結んでいた。もうそろそろこの騒ぎも、終局を迎えたようである。

私は幕引きを考えた。この10月20日まで、繰り上げのチャンスはある。上位5人の議員がひとりでも、不慮の事故で死ぬことがあれば野村は議員になる。まったく、自動的にである。私は、公選法第235条(虚偽事実の公表罪)で、選挙公報記載の「1972年野村克也氏と結婚」とある部分が、それに当たると、刑事告発の準備を進めてきた。弁護士を選任し、その協力で、野村克也、野村沙知代、伊東芳枝の原戸籍を入手し、これを証拠とする。

伊東芳枝は、昭和32年(1957年)4月5日、米国籍人と結婚、昭和51年(1976年)5月17日に離婚した。野村克也もまた妻がおり、両名が結婚したのは、昭和53年(1978年)4月である。つまり、1972年当時は、克也、沙知代ともに結婚しており、「野村克也氏と結婚」という公報記載は、虚偽なのである。

私が告発を決めたのは、自動的に繰り上げ当選になるということは、一度は衆院議員になり、それから辞職する形を取らざるを得ないこと。これは、日本の議会史に大きな汚点を残すことになるからである。

告発によって、検察庁が起訴すれば、野村沙知代は刑事被告人になる。すると、公共の電波であるテレビは、刑事被告人に番組出演を認めることはできない。講演会もまた然りである。つまり“サッチー騒動”は終わりを迎えるのである。

悪い冗談だが、テレビを初めとしてマスコミにこの騒ぎをエンエンと続けさせ、国民の耳目をそちらに引きつけている間に、新ガイドラインの戦争法、この戦争法に反対する反戦派をしょっぴくための盗聴法を通過させた、とさえいわれている。

塩月さんの「取材終了宣言」にある通り、テレビが愚民化に拍車を入れるのはオカシイと思う。なにもかにもが、世紀末的でオカシイことだらけの日本を、少しはマトモにしたいものだ。 平成11年(1999)7月10日

最後の事件記者 p.290-291 バカなピエロはもういない

最後の事件記者 p.290-291 人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。
最後の事件記者 p.290-291 人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかに

するよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。私が勝訴になったら、その雑誌のバックナムバーをみて、デマを書かれて迷惑している人たち全部を集めて、徹底的に斗いたいと考えた。強い敵と斗うことは、相当な勇気がいることである。護国青年隊よりは、本質的に勇気が必要である。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。

報道協定のことは抜きにして、週刊明星と週刊実話とが、皇太子妃のニュースを書いてしまった。それから、週刊朝日が、戦斗機問題のカゲの人、天川勇なる人物を詳細にレポートとした。この絶好の社会部ダネは、大新聞には、何故かのらなかった。

十月二十八日の朝日社会面は、決算委の記事として、このナゾの人物の名前を出したけれども、三十日発売の週刊朝日が書いているのだから、週刊の方が早かったことになる。

ことに面白いのは、週刊誌の皇太子妃の記事の筆者が、新聞記者だといわれていることだ。新聞記者が、自分の新聞にかかないで、雑誌に原稿を書くという傾向が、ハッキリと強まってきているのではなかろうか。

新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。新聞記者が、自分にサラリーをくれている新聞に書けず、雜誌に書くということは、実は深刻な問題ではないのだろうか。

新聞週間のとき、講師になった読売原出版局長は、こういってる。

『週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたために起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う』(新聞協会報一三五六号)

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。誰だって、危険を冒すのはいやである。自分で額に汗して生活費をつくりだすよりは、記者クラブで碁、将棋、マージャンをたのしみながら、黙ってサラリーをもらう方が、ずっと楽だからである。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。