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最後の事件記者 p.162-163 数日後、津村の姿をみかけた

最後の事件記者 p.162-163 まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。
最後の事件記者 p.162-163 まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。

『今の話が、そのまま新聞に出たら、一体どういうことになるのでしょう』

『私に対する党活動停止の処分が、除名という最後的な処分に変るでしょう』

彼は書くな、書かないでくれ、といわずに、そう答えた。そういわない彼がいらだたしくて、私はおうむ返しにまた訊ねた。

『除名になったら……』

彼は顔をあげた。その眼は力無く妻へ注がれ、彼女の視線を誘って、再び下へ落ちていった。私は彼の視線を追ってみた。

子供である! 父と母とは、道具らしい道具とてない、この貧しそうな部屋で、それでもビックリするほど肥った、健康そうな我が子の安らかな寝顔をみつめていた。

『……そしたら、喰えなくなるでしょうナ』彼は視線を少しも動かさずに、切実な響きをこめて、また会話の相手が、日共の敵〝反動読売〟の記者であることも忘れたように答えた。

あの、死に連らなる恐怖の人民裁判の、アジテーター津村の厳しさも、日共党員津村の虚勢も、もはやそこにはなかった。政治や思想をはなれて、純粋に人を感動させる、夫と妻と、父と母と子の愛情だけが、このうらぶれた寮の部屋いっばいに漂っていた。

私は無言で立上った。ちょうど同じ位の男の子が、私にもいたのだった。小さな声で「サヨナ

ラ」とだけいって、私は室外へ出た。

まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。「あれはダメでした」と、社へ電話しながら、私はこれでいいんだと、ひとりうなずいていた。

数日後の参院引揚委員会で、私は傍聽席の隅っこに、津村の姿をみかけた。これが最後だった。やはり、彼は日共党員として脱落していったらしい。あの男の子も、もう二、三年生になっているだろう。

或る乙女の自殺

一人の乙女の自殺があった時にも、私はウソを書いたことがある。真実を伝えなかったのである。バカな父親が、社会的にも人間的にも殺されてしまうのを防ぐためだった。

二十六年九月十八日、板橋のある病院で廿歳の娘さんが息を引きとった。前日に猫イラズをのんで自殺を図ったのだが、発見がおくれたため、手当もとうとう間に合わなかったのである。

若いサツ廻りの記者は、この事件をゴミ原稿として電話で送ってきた。私は遊軍だったので、たまたまその電話をとった。内容は「働らきつかれた娘さん自殺」というものだった。母親に先 立たれた長女が、父と弟妹の面倒をみて、主婦代りになって家事をやっていたのだが、それにくたびれて自殺してしまったという。

赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 除名になったら…?

赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 There was neither the rigor of Agitator Tsumura in the fearful people's court that led to that death, nor the bluff of the JCP member Tsumura.
赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 There was neither the rigor of Agitator Tsumura in the fearful people’s court that led to that death, nor the bluff of the JCP member Tsumura.

津村氏は私の質問を黙ってうなずきながら終りまで聞いていた。その表情は刻々と変化して驚きからついには感嘆となった。

『どうして、一体、それだけの話をどこから聞いたのです?』

彼はこういって、私の質問のすべてを肯定した。事実その通りだというのであった。そして最後に、自嘲にも似た『ヒューマニストだったんです』という言葉が洩れたのだ。

『今の話がそのまま新聞にでたら、どういうことになるでしよう?』

『党活動停止の処分が、除名という最後的処分に変るでしよう……』

彼は私に書くな、書かないでくれとはいわずにそう答えた。そういわない彼がいらだたしくて私はおうむ返しにまた訊ねた。

『除名になったら……』

彼は顔をあげた。その眼は力無く妻へ注がれ、彼女の視線を誘って再び下へ落ちていった。

子供である! 父と母とは、道具らしい道具とてないこの貧しそうな部屋で、それでもビックリするほど肥った健康そうな、吾が子の安らかな寝顔をみつめていた。

『……そしたら、喰えなくなるでしようナ』

彼は視線を少しも動かさずに、切実な響きをこめて、また会話の相手が日共の敵、〝反動読売〟の記者であることも忘れたように答えた。

もはやそこには、あの死に連なる恐怖の人民裁判のアジテーター津村の厳しさも、日共党員津村の虚勢もなく、政治や思想をはなれて純粋に人を感動させる、夫と妻と、父と母と子の愛情だけが漂っていた。

私は立上った。ちょうど同じ位の男の子が私にもいたのだった。小さな声で『サヨナラ』とだけいって私は室外へ出た。まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。

数日後の委員会で、私は傍聴席の隅っこに津村氏の姿を見かけた。それが最後だった。やはり彼は日共党員として脱落していったらしい。一労働者として地方へ出ていったとも聞いている。そして同じ小田急線でよく顔を合せては、皮肉やら冗談を言い合っていた久留氏も、地下へ潜ったものか絶えて逢わないでいる。

〝ナホトカ天皇〟はアクチヴィストとしての、理論と実行力と指導力と、さらに品位をも兼 ね備えた人物であった。