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新宿慕情 p.140-141 渋谷の百軒店のカフェーのこと

新宿慕情 p.140-141 とうとう、芸者とホステスとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか…。私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。
新宿慕情 p.140-141 とうとう、芸者とホステスとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか…。私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。

青春の日のダリヤ

〝おとな〟の男に

こうして、〈私の新宿〉について、中学生時代に、小田急から省線(当時は、鉄道省の線だから省線電車だった)に乗り換えて、巣鴨の府立五中まで通学した時から、四十年の変遷を書いていたら、いつの間にやら、けっこうな量になってしまったようである。

思いついて、「週刊新潮」誌(10・16付)をひろげてみたら、山口瞳氏の「男性自身」が、六一四回の連載になっている。

中学二年生の時に、校友会雑誌に原稿を書いてから、どうやら、私も、四十年以上も、ペンを握りつづけてきたようだ。

だから、書きつづけている分には、山口さんの六百回に迫ることもできるだろうが、デスクの浅見君に、「ここは旅行記のハズなんです。依頼した原稿がたまってるから、ソロソロおりて下さいよ」と、イヤ味をいわれたので、ひとまず、連載をやめることにしよう。

気がついてみると、新宿と私の人生との関わり合いを書きながらも、とうとう、芸者とホステ

スとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか——。

私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。

中学を卒業して、浪人していた私は、仲の良かった五中の制服指定店の主人に頼んで、背広を作ってもらった。催促なしのある時払い、という約束だったから、もしかすると、あの三星洋服店に、借金が残っているかも知れない。

未成年のクセに、背広を着て一丁前のフリをした私は、好奇心に燃えて、〝おとなの世界〟にクビを突っこんでいった。

バー、カフェーと、ノゾき歩いた私は、「ナンダ、これだけのものか」と、その好奇心はすぐ、満たされてしまった。

それでも、渋谷の百軒店のカフェーのことは、まだ覚えている。いまの同伴喫茶のように、背もたれが高く、店内は薄暗くボックスの中は、そばに近寄らねば、さだかには見極められないほどだった。

私は、そこではじめて、ペッティングを経験した。まだ、少年らしい潔癖感が残っていたらしく、〝汚れ〟た手を、ビールで洗って、テーブルの下をビショビショにしたものだった。

一張羅の背広のズボン、前ぼたんのあたりが、女給サンの手に塗っていた白粉で、白ッぽくなっていたのを、翌朝、母親にみつかって、叱られたことも、記憶が鮮やかだ。

こうして、バーやカフェーを知ったあと、それでもまだ、私は、遊郭には行かない。

新宿慕情 p.142-143 おとなになりたいんだオネエさん

新宿慕情 p.142-143 仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。日本髪の、いかにも、芸妓ッぽいお姐さんが入ってきた。
新宿慕情 p.142-143 仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。日本髪の、いかにも、芸妓ッぽいお姐さんが入ってきた。

渋谷、丸山町の花柳界を歩きながら、「粋園」という大きな待合に、ひとりで入ってみた。そこの仲居、しかも、初めて行った日の仲居サンが、なぜか、私を大切にしてくれた。

二回か、三回、ヒラ座敷で、酒を呑んで帰っただろうか。そして、誕生日の夜に、覚悟を決めて出かけていった。

「ボク、きょうが誕生日なんだよ。……おとなになりたいんだ。オネエさん、頼むネ……」

多分、そんなセリフを吐いたことだろう。

はたちの誕生日に

十一時ごろで、ヒラ座敷の妓は帰っていった。そのころの待合の玄関には、必ずといってよいほど、将校の黒長靴が脱いであった時代だ。♪腰の軍刀にすがりつき……、といった唄が、流行っていたころだろうか。

仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。

日本髪の、いかにも、芸妓っぽいお姐さんが入ってきた。もちろん、初対面の女(ひと)であった。

そのころの花街の情緒は、丸山町あたりでも、立派なものだった、と思う(というのは、他の花街の知識がなかった)。

長襦袢一枚で、するりと入ってくると、膝が割れれば、肌があった。叮寧にタタんだお座敷着

と帯などは、朝早く、下地ッ子(芸妓見習生)が、お姐さんの浴衣と引き換えに、置屋に持ち帰ってしまう。

入浴して、キリッと浴衣姿に変わり、薄く化粧をして、甲斐甲斐しく、遅い朝餉のお給仕をする。

酒の相手はしても、座敷では食べものを口にしない、という戒律は、厳しく守られていて、同衾した翌朝でさえも、朝食をいっしょに、というまでには、ずいぶんと、時間がかかったものだった。

私の初体験の翌朝は、六月という梅雨時にもかかわらず、朝から太陽が輝いて、白地のカーテンを通して、日がサンサンと縁側に入ってきていた。

彼女(ダリヤという源氏名だった)は、その陽を浴びながら鏡台に向かって、髪をまとめていた。

「ボク、童貞だったんだ……」

私は、鏡の中の彼女に、そう語りかけた。

「……」

彼女は、大きく眼を瞠って、私を見返した。その瞳には、感動に近い輝きがあった。

「まあ、そう……。やっぱり……」

「オレ、きょうからハタチなんだよ。計画を樹てていたんだ。誕生日の夜に……って!」

「そうお!」

新宿慕情 p.144-145 二月十一日の夜に別れることを約束した

新宿慕情 p.144-145 その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。♪紀元は二千六百年…
新宿慕情 p.144-145 その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。♪紀元は二千六百年…

「ボク、童貞だったんだ……」
私は、鏡の中の彼女に、そう語りかけた。
「……」
彼女は、大きく眼を瞠って、私を見返した。その瞳には、感動に近い輝きがあった。
「まあ、そう……。やっぱり……」
「オレ、きょうからハタチなんだよ。計画を樹てていたんだ。誕生日の夜に……って!」
「そうお!」

彼女が、深くうなずいた。頭に、両手を挙げていたので、二の腕の、ふくよかな白さが、鏡の中に映っていたのを、私は、戦争中に想い出したりしたことを、ハッキリと覚えている。

本名を友枝といった。八戸市の出身だった。当時で二十四歳で、すでに〝看板借り(丸抱えの芸妓ではなく、ダンナ持ちで、置屋の看板を借りている自前の妓)だったが、あとで判明したところでは、当夜は、ヒラ座敷を終わって、帰ろうとしていたのを、おキクさんに口説かれて、渋々、泊まったそうだ。

少年の日の(いや、もう青年というべきか)私は、この芸妓に夢中になった。その六月から翌年の二月、紀元節(建国記念日)の夜まで、ことに、秋以降は、〝同棲同様〟の生活であった。

おキクさんが、私を、どこぞのお坊ッちゃん、とでも思ったのか、気前良く貸してくれる。彼女は、泊まりの花代を、黙って、私のポケットに入れて、返してよこす——自分に傾倒してくる年下の、若い男にひかれるものがあったのかも知れない。

だが、彼女にも、〝芸妓らしい秘密〟があったのか、ふたりは、二月十一日の夜に、別れることを約束した。

その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。

♪紀元は二千六百年……。私が彼女に夢中になり出したのは、その歌とともに、この花街でも、組踊りが座敷をまわってきたころだった。

「オイ、ダリヤはどうした?」

酔った私がそう叫んだ時、地方(じかた)のバーさん芸者が聞きとがめた。

「お兄さん。その年で、ダリヤだなんてイバらないで! ダリヤ姐さん、といいなさい!」

その一言で、私は、ダリヤの地位を知った——三善英史の唄『丸山花街』が好きなのは、そんな想い出につながるからであろうか。

まだつづく情的研究

〈脱ダリヤ〉の結果、私は新宿二丁目を知るようになった。それまでは、ダリヤだけしか知らない〝純情さ〟だったのだ。

やがて、日大の芸術科に行っていたころ、オフクロとふたりで、ひるめしを食べていた時のことだ。

台所口で、「ゴメン下さい」という声がした。? 聞き覚えのある声だった。

——ア、おキクさんだ!

さっと、顔色を変えた私の表情に、オフクロは私を見た。私は、黙って両手を合わせた。

オフクロは立っていって、なにもいわずに、何十円だったかの、枠園のツケを払ってくれたのだった——それ以来、私は、八十七歳にもなる老母に、頭が上がらない。

いまでも、オフクロは、電車とバスを乗りついで、ひとりで私の家に、様子を見にくる。そし

ていう。

新宿慕情 p.146-147 ダリヤはどうしてるかナ?

新宿慕情 p.146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。
新宿慕情 p.146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。

いまでも、オフクロは、電車とバスを乗りついで、ひとりで私の家に、様子を見にくる。そし
ていう。

「情的研究は、もう卒業したんでしょうネ」

かたわらで、妻がニヤニヤして、その言葉を引き取る。

「イイエ、おばあちゃん。まだまだなんですよ」

志偉座とぱとら、という子供たちが、口をさしはさむ。

「オバァちゃん。ジョーテキ、ケンキュウって、なあに?」

妻は、八戸市のすぐそば、県境の岩手県軽米町の出身で、長姉が町長の夫人である。

むかし、子供たちを連れて帰省した時、役場の知人に頼んで、八戸市の「◯✕友枝」という戸籍を探してもらったそうだ。自分がまだ生まれたばかりの時の〝情事〟だから、現実感がないらしく、ヤキモチをやかない。

「もう、いいおばあさんだもんネ。あなたが、童貞を捧げた芸妓サンに会ってみたいワ。でもその人、発見できなかった……」

……八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。

——いよいよ、戦死だナ……。

私は、そう思って、「オレは死ぬ時に、天皇陛下万歳! と叫ぶだろうか?」と、考えたりした。

——ダリヤはどうしてるかナ?

若い生命を散らすのだから、男に生まれたからには、女のことを想って死んで行きたかったが適当な女性がいなかった。だから、ダリヤのことを考えてみたりしたが、ピンとこない。

——仕方がないや。オフクロで我慢するか……。お母さーん(なんだか、オミソみたいだ)。

夜が明けた。ついに、戦車のキャタピラのごう音は、聞こえてこなかった——。

舞鶴に上陸して、東京に着いたその足で、読売新聞に挨拶して、世田谷の家に帰った。

オフクロが、ひとりで家にいた。

「ただいま」

「お帰りなさい。元気で良かったネ」

読売社会部に復職してから、ついでの時に、丸山町に行って調べてみたが、ダリヤ姐さんの消息は聞けなかった。

あの当時の半玉のひとりが、新宿十二社で料亭をしているが、まだ、行ったことがない……。

新宿慕情140-141 渋谷の百軒店のカフェーのこと

新宿慕情140-141 とうとう、芸者とホステスとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか…。私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。
新宿慕情140-141 とうとう、芸者とホステスとが登場しなかった。不公平だから、サッと走り書きをしようか…。私が、〝おとなの男〟になったのは、満二十歳の誕生日の夜だった。

新宿慕情142-143 渋谷・丸山町の「粋園」という待合

新宿慕情142-143 仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。日本髪の、いかにも、芸妓ッぽいお姐さんが入ってきた。
新宿慕情142-143 仲居のおキクさんは、万事承知の助で、この〝坊や〟の筆下ろしのために、然るべく、手配をしていてくれたらしい。日本髪の、いかにも、芸妓ッぽいお姐さんが入ってきた。

新宿慕情144-145 三善英史の唄『丸山花街』が好き

新宿慕情144-145 その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。♪紀元は二千六百年…
新宿慕情144-145 その深夜の二時ごろ、凍てついたアスファルトに、彼女が去ってゆく駒下駄の音が響いていたのを、私は忘れられない。♪紀元は二千六百年…