靴屋」タグアーカイブ

雑誌『キング』p.23下段 シベリア抑留実記 シベリアで考えたこと

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.23 下段 シベリアで考えたこと ソ連国民生活の実情
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.23 下段 シベリアで考えたこと ソ連国民生活の実情

傷したり、不慮の死を招いたりする。

優遇されたのは特技者であった。腕に職のある人——工員、理髪、大工、左官、仕立屋、靴屋などは、低いソ連技術者が相手なので皆自分の本業で楽に働いていた。

シベリアで考えたこと

ソ側思想係将校が各中隊へ壁新聞を作れといってきた。私が中隊の編集者にきめられたので、皆が筆者であり、皆が興味を持てなければと考え、「ものは付」を募集した。あのシベリアで中隊の皆は何を考えていただろうか。

一、「逢いたいものは」は、九割くらいがお母さんと呼び、わずかに妻子、父、兄妹だった。

二、「食べたいものは」は、一位から十位までが、餅類、お赤飯。餅も甘い餅で、量があって腹ごたえがあるからだったろう。

三、「したいものは」は、温泉とか釣りとかゆっくりした休養を求めていたが、親孝行も上位の方だった。

四、「みたいものは」は、故郷の山河、その後の内地、肉親の顔など、毎日毎日考えていたことばかりであった。

ソ連国民生活の実情

私達の列車がシベリアに入ってからの情景は、

雑誌『キング』p.21下段 シベリア抑留実記 収容所生活

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 下段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 下段

が一つあるいは二三集まって収容所をつくり、軍隊の組織そのままだった。兵舎は木造の半土窟建築で、窓から下は土中にあり、地上には盛土をして寒さを凌ぐものだ。入ソ当時はまだまったく何の設備もなく、不便きわまりないものだったが、定められた作業が終わってから整備に努力したので、私達の収容所はこの地区で一番大きな立派な収容所になった。

なによりも誇るのは完備した病棟で、観察、内科、外科と分かれ、それぞれ専門の軍医がおり、衛生下士官兵が勤務して、ソ側軍医の無智と頑迷と彼等の間の政治的影響とに迷惑はしたが、地区司令官の少佐すら盲腸になった時、ソ側病院に入らず日本軍医の執刀を求めて入院してくるなど、私達に大きな安心を与えてくれた。入浴場もできたが、ソ連式の行水風呂で、風呂桶のやや大きめなものに一杯か二杯の湯をもらって体を流すもので、体は温まらず、冬の寒い時などガタガタふるえながらどんなにか浴槽を懐かしく思っただろうか。

理髪室、縫製工場(仕立屋と靴屋)もあり、それぞれ職人が勤務していた。大工が兵舎を修繕し、左官が壁を塗り、一切の設備ができ上り、人間が生活し得る環境になったのが二十一年の秋であった。寝台といえば聞こえがよいが、お蚕棚式の二段装置に毛布一枚かぶるだけ、ペーチカ