傷したり、不慮の死を招いたりする。
優遇されたのは特技者であった。腕に職のある人——工員、理髪、大工、左官、仕立屋、靴屋などは、低いソ連技術者が相手なので皆自分の本業で楽に働いていた。
シベリアで考えたこと
ソ側思想係将校が各中隊へ壁新聞を作れといってきた。私が中隊の編集者にきめられたので、皆が筆者であり、皆が興味を持てなければと考え、「ものは付」を募集した。あのシベリアで中隊の皆は何を考えていただろうか。
一、「逢いたいものは」は、九割くらいがお母さんと呼び、わずかに妻子、父、兄妹だった。
二、「食べたいものは」は、一位から十位までが、餅類、お赤飯。餅も甘い餅で、量があって腹ごたえがあるからだったろう。
三、「したいものは」は、温泉とか釣りとかゆっくりした休養を求めていたが、親孝行も上位の方だった。
四、「みたいものは」は、故郷の山河、その後の内地、肉親の顔など、毎日毎日考えていたことばかりであった。
ソ連国民生活の実情
私達の列車がシベリアに入ってからの情景は、