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迎えにきたジープ p.068-069 早まった事をしてはいけない

迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.
迎えにきたジープ p.068-069 I was hurried to go outside without a cap, and I was photographed by a man called his friend. (no cap, military uniform for officer, and close-cropped head) I thought I had failed, but it was too late.

そして次の様に説明せり。

『あなたは何時企業をやるつもりですか?』と問はれたら、『私は金がある時に』と答へればよ

ろしい。

10 それから、日本に帰ったら、お前は何処に住むか、如何なる職業につくか、と強硬に訊間せり。私は次の如く答へたり。

現在日本は極度の就職難にあり、自分は日本に帰って就職出来るや否やは分らない、と。

然るに中佐はどうしても之に答へなければ、一向に私を解放しそうになかったので、入隊前の会社名と、住所を其の場のがれに告げたり。

会社名 某造船所

住 所 某市

以上にて筆記、署名は終り、次のごとき注意事項を考へつつ云へり。

イ、お前が今日玆に呼ばれたことを友達が聞いたら、自動車故障の為に之が修理に呼ばれて、今迄此の作業をやっていた。

ロ、決して他人に言ってはならない。

ハ、日本に帰って、人々からソ連の状況に就いて聞かれたら、私は森林で木材の伐採ばかりやっていたので、ソ連の状況については全然知らない。

ニ、共産主義に関する書物等は絶対手にしてはいけない。

ホ、ソ連大使館には絶対に行ってはいけない。

大体以上で、後は通訳がソ連新聞プラウダの日本欄(確か経済上の情報なりしと記憶す)を通訳して聞かせたり。そして私は遂にこのノロワシキ部屋より放り出された。

私は自分の署名した事の重大さに今更の如く驚き煩悶した。如何にするか? トボトボと出張先に向い、歩きながら考えた。

私には責任がある。部下を全部元気で内地に帰す迄は、如何なることがあっても早まった事をしてはいけない。又日本へ帰ったら直ちに届け出たら何とかなるであろうと。

それから出張先に帰って作業に従事中三月二十五日、又もマルタより歩哨来れり。又かと思っているとき『お前達は近く四月の初め日本へ帰る』早速マルタに帰り、出港の日を待つ間三月二十九日頃、事務所迄来い、との通知で行きし所部屋には例の通訳ありたり。そして愈々日本へお帰りになることになりましたね、お目出度う。一寸外へ出ましょうといって、彼は急いで外へ出た。私もその為に急いで帽子をかぶらずに外へ出た所を、彼の友人と称する奴に写真を写されてしまった。(服装は脱帽、将校服、坊主頭である)失敗った、と思ったが既に遅かった。通訳は左様ならと言い、握手を求めて去っていった。

一九四七年四月八日、私達はマルタを出発、四月十七日ナホトカに到着した。私の大隊は五月十二日の船で帰還した。私達旧将校は如何なる理由か残された。——私の大隊で一部の将校は帰還したが——。そして第六中隊という勤務中隊に編入され、毎日パン工場、軍酒保その他雑作業手として作業に従事した。その後日本新聞社高山氏から私達の残された理由について次のような話を聞いた。

迎えにきたジープ p.070-071 日本新聞社より反動と見なされ

迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.
迎えにきたジープ p.070-071 There were only two ways. Suicide, or report to the police as soon as I return. I chose this second option and immediately gave myself up to the police.

当時(四月)ナホトカは内地帰還の同胞で入る幕舎もなく、屋外に数日も寝なければならない状況であった。これを整理する為には帰還部隊の中より人員を選り出し、出張作業に出すことになり、私達はその指揮官要員としてであった。そして一部の将校は指揮官となり出張作業に出て行き、私達は残された。そして一日千秋の思いで内地帰還の日を待った。私達は何かにつけて日本新聞社より反動と見なされた。そして私達は到底帰れそうにもなかった。

六月の中旬、私達はスーチャンの将校収容所に送られた。しかし如何なる理由なりしか同所では私達を受取ってくれなかった。それで又ナホトカに帰り今日に至ったのである。そして九月二十日突如内地帰還の命に接したわけである。ナホトカに於ても又帰還の船に於ても、私はかのノロワシキ悪夢の如き件につき幾度か煩悶した。道には二つしかなかった。自決するか、それとも上陸したら直ちに警察に届け出るか——かの命令を毛頭履行する意思のない私には——そして私はこの第二の手段をとり直ちに自首した次第である。

▽山根氏の場合

一九四五年十一月三日私の大隊はイルクーツク第32の12収容所に到着、山中の伐採作業を行い過度の労働と粗悪なる給養の下で全員の約三分の二が倒れた。その為全員は伐採作業に対しては極めて恐怖の念を持っていた。

一九四六年夏第10収容所である肉工場作業に転用されたので、やっとホッとし健康も逐次に回復した。

私は今迄大隊付であったが、一九四六年十一月五日大隊長を命ぜられた。そして十二月十日帰還の為、中間集結地であるマルタ収容所に集合した。

一九四七年一月二十六日深夜、地区司令官の呼出しであると称し、六一六号家屋に連行せられた。そこにはシュザイエル大尉と通訳二名がいて身上調査を受けた。そしてそれは今迄にない微に入り、細に入ったものであった。

氏名 山根乙彦 二九才

家庭の事情 父の職業 大学教授

父母の友人の氏名、住所

本人の友人の氏名、住所

軍歴 某旅団司令部 獣医大尉

以上の様な調査は更に四回にわたり夜十一時より午前二時頃迄行われた。

二月四日再び呼び出され調査を受く。そのときには中佐がいて前回と同様訊問し、次の如き事項を誓約せしめんとした。

1 収容所内に於ける軍国主義者の摘出。

2 内地帰還後に於てソ連代表者に対する情報の提供。

私は日本人として出来ないと断言して席を立たんとした。すると中佐は次の如く脅迫した。