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シベリヤ印象記(5) シベリヤ印象記のはじめに⑤

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年9月25日

昭和21年の5月、ようやくシベリアにも春が来た。5月の春、6月の夏、7月の秋。そして、8月は初冬で、月末には雪が降った。残酷なことだが、ソ連側にいわせれば、死ぬべき者はすべて死なせて、ようやく、本格的な捕虜の労働力を建設に役立たせる時がきた、ということだろうか。

捕虜名簿を作り出し、思想教育のプログラムもスタートした。私が帰国後に知ったことだが、ハバロフスクを中心に、「日本新聞」という宣伝紙を発行し、いわゆる民主化運動が進み出したのである。欧露のエラブカには将校収容所があり、ここから、瀬島龍三(伊藤忠顧問・大本営参謀)が、東京裁判にソ連側証人として出廷したこと。関東軍(在満部隊)の高級将校たちが、戦犯調査にかけられていること。日独のプロ将校たちの対比が際立っていたこと、などなど、いろいろなことが、読売新聞に復職して、引揚担当者として舞鶴に詰めていた私に分かってきた。

そうして考えてみると、21年9月ごろに、建制のままの作業隊であった、チェレムホーボ第一収容所の第一大隊、第二大隊(ともに北支軍)が、まず、下士官兵と将校とに分割された。将校は将校だけで作業隊を編成し、石炭掘りに従事させられていた。と同時に、下士官兵は、同地の他の収容所との間で、入れ替えが進められ、建制を完全に壊したのだ。

当時、第一大隊長だった塚原勝太郎大尉は「将校がどんなに働けるか、ソ連側に思い知らせてやろうじゃないか」と、檄を飛ばした。今までの建制では、三田小隊員54名の健康と作業との兼ね合いに、心を砕いていた私などは、その責任から解放されて、ただ肉体労働に専念できる気軽さにバリバリと働いたものだ。丸1年、シャベルを握りつづけたので、指の内側の丸みの角には、タコができて、手の平は真ッ平になってしまった。このタコがすっかり取れるまで、1年ぐらいもかかっただろうか。

こうして、わずか丸2年の俘虜生活ではあったが、人生体験としては、軍隊の丸2年以上の厳しさがあった。軍隊のそれは、生と死との隣り合わせではあっても、精神的には楽だった。天皇の軍隊ではあろうとも、祖国防衛であり、具体的には親兄弟、家族を守ることだったからだ。

だが、戦時俘虜の境遇は、ポツダム宣言によって、家族のもとに帰れるハズが、日ソ中立条約を破り、8月9日に宣戦布告とともに満州になだれこんできたソ連軍に降伏して、極寒の地に拉致され、強制労働を強いられている。精神がまず参ってしまった。

初めて体験する寒さ。この酷寒に加えて、飢餓である。昭和20年の終わりごろまでは自分たち自身で満州から持ってきた、米、味噌、醤油といった食糧があった。しかし、21年にはいると、手持ちの食糧はなくなり、ソ連側も対応できないための飢餓である。これがつづくのだから慢性飢餓である。

寒さ、飢え、栄養失調に、襲いかかってきたのは、発疹チフス。その間も休みなくつづく炭坑労働——。これを「地獄」といわずして、なんといおうか。

いままで、旧陸軍の兵制について、冗慢と思えるほどに述べてきたが、それは、シベリア捕虜について、理解されやすいように、との思いからであった。第一、私たちを軍隊に引っ張り出したのは徴兵制という、国の法律によってである。しかし、その持ち駒を、自由に、勝手に動かしたのは、陸士、陸大出身の職業軍人たちである。だが、建制のまま入ソしたとき、命令を出すのは、幹候出身の予備役将校しかいない。階級章こそ、少尉、中尉、大尉、少佐と順番があるが、みな、自分たちと同じなのだ。同じ隊にいて、生死を共にしてきた仲だから、「どうしてくれるんだ!」と、文句をつけられない。

中佐、大佐、少将、中将という高級将校。いうなれば、“軍閥”や“その片割れ”はいないのである。これではケンカにならない。団結して、ソ連と戦うしかない。ソ連は団結されたら困るから、建制をブチ壊すのだ。

寒さ、飢え、伝染病、重労働という生活の一断面ごとに書くことは多い。が、それに加えて、スパイである。同胞相争うように、ソ連は、民主化運動を進め、その運動のなかに“密告制スパイ”を作りはじめたのだった。この日本人同士の密告の中で訓練を重ねて「ソ連のための日本人スパイ」の、一本釣りが始まったのである。それは、米軍占領下の日本に帰るのだから、対米ソ連スパイを日本中に配置しよう、という計画だったのであった。昭和21年には、米ソの冷戦は始まっていたのである。

それに対して、米軍だって黙ってはいられない。引揚港・舞鶴に、米軍防諜部隊を配置して、引揚者のひとりひとりを訊問した。在ソ経歴を申告させ、「そこでナニを見たか」「スレ違った列車には何が積んであったか」、何十万という引揚者を調べるのだから、米軍は、居ながらにして、シベリアの全実情をつかんだのである。これを、軍隊用語で「兵要地誌」という。つまり、作戦計画を立てる時の基礎資料である。当時はまだ、偵察衛星も飛んではいなかった。さて、ここから、私の「シベリア物語」は始まる。——スパイのことからである。(つづく) 平成11年9月25日