一階はG—2のオフィスである。ここには非公然秘密機関というべき幾つかの組織がある。ATIS( Allied Translation and Interpretation Sec. )である。MISGというのは、朝鮮戦争
が起きたときに、CICとATISとを一緒にして編成したもので、Military Intelligence Service Group の略で、いわばソ連のスメルシのような戦時諜報機関である。そして朝鮮に第一〇〇MISGが出動、情報大隊を釜山においていた。これには日本人で参加した者もあったといわれている。
またR&I( Research and Information )という戦時情報の担当もある。
二階は人事、三階はCICとCISである。引揚者でこの三階に呼ばれた人は、まず舞鶴で相当しぼられた組である。
四階は地理課と心理課。それにCIAのオフィスの資料調査課(Document Research Sec.)舞鶴のLSでチェックされた兵要地誌関係の好資料保持者のもとに、復員局から、
『復員業務につき占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします』
というハガキが届けられ、往復の旅費、食費、日当を日本政府から支給されて、通ったのはここである。
五階は兵室と地図室、ファイル室である。顔写真までとられた引揚者のファイルはここに保管されている。
六階は兵室、食堂、戦史課、CISなどがある。ここのCISは高度訊問である。三階で散
散タタかれても、どうしてもシャベらないのが、ここでウソ発見機などにかけられるのだ。
ラストヴォロフ事件の志位正二元少佐は、当時このNYKビルに勤務していたのだが、この三階と六階について次のように書いている。
七月のある日、私は同じビルの三階にあったCICに呼ばれて、ソ連での「誓約」について調査された。調査にあたった若い軍属の二世は確証があるといって私に書類をみせた。
それは日本各地区のCICが報告した、私についての引揚者の証言であって、なかには密告に類するいかがわしいものもあったが、ある証言はことの真相をはっきり捉えていた。そしてその証人は私のことを、あの男にこんなことはできそうもないし、また気の毒だから救ってやるようにとも書き加えてあった。
これには私もあっさり参ってすべてを告白した。そこで今度はウソ発見機にかけられた。それは、私が現在ソ連側と連絡をとっているのではないかを、確かめるためであった。結果がよくないと三回もやりなおされたが、結局異常があれば報告することを条件にして放免された。
私はすぐに辞職しようかと思ったが、といって職を離れればたちまち生活にも困る状態にあったので、思い止まってことの成り行きにまかせていた。
二十七年四月二十八日の講和発効から、これらの機構は若干変ってきている。濠端の第一生
命ビルに頑張っていたGHQは市ヶ谷に移転し、国連軍総司令部は解消して、日米安保条約による日本駐留米軍司令部になった。つまり占領軍から駐留軍に変ったというわけである。しかし注意しておきたいのは、ここは同時に、米極東軍司令部であり、国連軍司令部でもあるということだ。つまり看板が三枚ある。