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編集長ひとり語り第61回 アフガンもそろそろ幕引きの時期では?

編集長ひとり語り第61回 アフガンもそろそろ幕引きの時期では? 平成13年(2001)11月6日 画像は三田和夫80歳(左側 編集長ひとり語りオフ会2001.11.24)
編集長ひとり語り第61回 アフガンもそろそろ幕引きの時期では? 平成13年(2001)11月6日 画像は三田和夫80歳(左側 編集長ひとり語りオフ会2001.11.25)

■□■アフガンもそろそろ幕引きの時期では?■□■第61回■□■ 平成13年11月6日

人間という動物は、なんと愚かなのだろうかと、アメリカのテロ報復と炭疽菌騒動の報道をみつめながら、つくづくそう感じた。社会的にとか、肉体的にとか、“無力な人間”は、それなりに賢いのだが、なまじ、権力、金力などの“力”があると、それを過信し、思い上がってしまうのである。

アフガンに地上軍投入という段階は、前から分かりきっていたことである。どうしてソ連のアフガン侵攻が失敗したか。その戦史をひもといてみなかったのか。第一、タリバン空爆の目的はなんなのか。ビンラディンのあぶり出しが、空爆だけで成功するか、とアメリカ軍部のお歴々が思ったのだろうか。不思議である。

空爆は、日本本土のように、人口が密で、それなりに施設がみちみちている場所であれば、効果もあがるだろう。一般人の厭戦気分も引き出せよう。だが、アフガンの報道で映し出される光景は、いうなれば、無人の荒野にもひとしい。これで、誤爆、盲爆とくれば、一般人の死傷が出て、反米デモの気勢もあがるというものである。

私の軍歴は歩兵であった。歩兵操典という教科書には、「歩兵は軍の主兵にして…」とあった。その後は忘れてしまったが、日露戦争の二〇三高地争奪戦では、乃木将軍はひたすら歩兵を投入し、やっと勝てたが、甚大な戦死者を出した。

ベトナム戦争もそうだったが、10年前の湾岸戦争で、クリントン大統領は、歩兵投入をためらい(母親達の反感を恐れた?)、敵大統領を殺すこともできなかった。結局、何の戦果もなしの結論だった。ナゼ、歩兵が軍の主兵かといえば、武器を持った連中が、敵地を占領し、相手にいうことをきかせてしまうからである。マッカーサーの日本占領もそうだった。

アメリカは、歩兵の悲惨な映画を何本も作った。第二次世界大戦のノルマンディ上陸作戦もそうだが、先頃の「プライベートライアン」などは歩兵の惨憺たる実情を描いて、私たち元歩兵に感動の涙をしぼらせた。タリバン対策だって、歩兵の大々的投入をしなければ、解決できないのは、自明の理であった。それがブッシュには理解できないのか。

もう少し身近な問題に例を求めようか。政局の焦点になっていた、選挙制度の改変もそうだ。公明党の議員数が、50人ほどから、先の選挙で30人に減った。そこで、怪しげな術策を弄したけど、モノにならなかったのだ。50人が30人に減ったというのは、それだけ支持されていない現実があるからだ。落ち目なのだ、ということを認識すべきだろう。なまじ、与党だという“権力”にすがるべきではない。

巨人の渡辺オーナーの、NHKでの巨人戦完全放送というのも、そのたぐいである。読売新聞一千万部発行という“権力”にすがって、魅力のなくなった巨人軍をなんとかしようというのは、公明党と同じである。

自治労の“金力”問題も、読売や公明党と同列だ。もっとも、稿を改めて書きたいのだが、読売の一千万部発行(印刷の誤り?)も、すでに崩れているのに、ABC部数は依然として、一千万部というのも、巨人軍と同じだろう。

さて、話を本筋に戻すと、アメリカは直ちに大量の歩兵を投入し、どんなに多くの犠牲が出ても、タリバンをコテンパンに叩いて、短期決戦に導くしか、この「古い戦争」を終わらせることはできない。これ以上、空爆を続けて、反米を盛り上がらせるべきではあるまい。

おりしもNHKは、2年前の「イスラム潮流」を4回にわたり放映した。その第3回は10月30日深夜だったが、在米イスラムの人々はアメリカの黒人たちをイスラムに改宗させて、気勢をあげていた。これが進んでいくと、一大事である。イスラム諸国を切り離したロシア。プーチン大統領のKGB上がりの険しい表情が、最近はなんと穏やかな顔つきになったことか。

日本でテロが起こされたら、「武器を持って闘う」という、ご意見の人物も、このコラムの読者にいるようである。公明党や巨人軍ほどの、それなりの“権力”があるのならまだしも、とても“力”とはいえない程度の力の人物は、どんな武器で、誰と闘うのか。そんな無意味な観念論をふりまわすぐらいなら、瀬戸内寂聴尼の「断食ニュース」でも、くり返し熟読玩味すべきである。 平成13年11月6日

◇◆編集後記◆◇

編集長も完全に復調したようなので、今号から復刊ではなく、通巻の号数に戻しました。今後ともよろしくお願いします。
編集長からも“オフ会”のお誘いの言葉をもらいました!
参加希望の方は直接メールをください。(編集発行人・田志偉)

——編集長の言葉 オフ会のお誘い——
入院前には、食事が取れず20kgも痩せてしまい、見るも哀れなシワシワのジジイになってしまいました。でも、退院後はキチンと食事をして、体力の回復を図っています。
私の著書のうち、残部のある物はプレゼントしたい(古本整理? 呵々)と思っていますので、ゼヒ、お出かけ下さい。茶飲み話でもしましょう。 三田和夫 平成13年11月6日

編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない!

編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない! 平成13年(2001)11月19日 画像は三田和夫80歳(最前列右から3人目 三田和夫の退院を祝う“艶の会”2001.10.28)
編集長ひとり語り第63回 ナゼだ? 私には理解できない! 平成13年(2001)11月19日 画像は三田和夫80歳(最前列右から3人目 三田和夫の退院を祝う“艶の会”2001.10.28)

■□■ナゼだ? 私には理解できない!■□■第63回■□■ 平成13年11月19日

あんまり、戦争のことばかり書きつづけたから、今回は話題をガラリと変えて、最近の新聞に、ひんぱんに登場する、子殺し、親殺しの傾向について語ろう。

じつは、さる10月28日の日曜昼、「三田和夫の退院を祝う“艶の会”」が催され、ザッと25名ほどの一族が集まった。ホテルの昼食バイキングで、みな十分に愉しんだ。

説明が必要だろう。私の父は外科医で、私が1歳半の時、大阪で開業していた病院と豊中村の邸宅と、7人の妻子を残して病死してしまった。33歳で突然、未亡人となった母は、それから75年、子供や孫、ひ孫たちに大切にされ、108歳で、眠るが如き大往生をとげたのである。

三田ツヤ。旧姓小野で、岩手県盛岡市の近江商人の一族、小野組から19歳の時に、独逸帰りの九大卒の外科医・源四郎のもとに嫁いだ。三田家は、南部藩の足軽組頭(士分)であったが、その長男・義正に商才があったとみえ、セメントの東北、北海道の専売権を得て財を成し、多額納税貴族院議員にもなり、盛岡市の中心部に、(株)三田商店を構えるにいたった。次男・俊二郎は岩手医専を創立した。

小野組は、三井組と同格の金融業だったが、明治維新で番頭に人を得ず、三井組がご存知の通りの隆盛を極めたのに、没落した。(宮本又次解説「小野組始末」)小野小町や最近では、刑法の小野清一郎博士などおりながら、近江から盛岡に流れてきたのは、そんな原因があったのだろうか。ツヤは小野質店の次女で、三女は糸治・中村治兵衛に嫁ぎ、岩手銀行頭取夫人となっていた。これは、私がやがて知ることになる“因果はめぐる…”ものがたりである。ツヤは子女の教育としつけに意を用いていた。盛岡で当時ただひとつのクリスチャン幼稚園に通わせ、私にいまだハッキリと記憶に残っている、宣教師のタッピング先生、園長の佐藤トク先生ら、当時の盛岡市の教養と知性とに接触していた。いま、88歳の長女美代子を羽仁もと子の自由学園に入れ、東京に遊学させていた。これには、京大出の長男、早大在学の次男(ともに兄)などが、強硬に反対したらしいが、ツヤの信念は動かなかった。

この反対にはドラマがあった。大正11年12月、大阪で客死した夫の跡始末をしたツヤが病院や邸宅を売った大金を持って、盛岡に帰ってきた時である。6人の子供たちの教育のため、つやは分散して銀行に預けようと主張したのだが、本家の当主・義正は、自分が岩銀の役員でもあり、かつ、ツヤの義弟が頭取でもあるのだから、一括して岩銀に預けよという。ツヤは義正に抗し切れず、その通りにしたのだが、そこに昭和初期の金融恐慌で岩銀は倒産。ツヤは無一文となったのだ。だが、予知した頭取一家は全財産の名義を変え、無疵で乗り切ったのだ。因果はめぐるというのは、姉妹でありながらの、この始末だからだ。

義正はツヤに詫び、生活費は毎月、三田商店から出すということで決着した。ツヤが子供たちを連れて、東京へ出たのには、そんな事件があったからであろう。本家から、毎月いくら出ていたのかは知らない。

そんな時代が、どれほど続いたのかは、もう記憶も薄れた。しかし、ある日、事件が起きた。義正の没後、家督を継いで本家の当主になった義一から、ツヤ宛に「請求書」がきたのである。三田商店からの貸付金を返せというものだった。義正との紳士協定を破られ、ツヤは泣き、長男はオロオロするばかり。その時、次男洋二は、ツヤを伴い、義一の許に乗りこんだ。この交渉が、どれほど続いたのかも分からない。しかし、貸付金ではなくなり、その時点で打ち切りとの結論になった。だから、私の少年時代は、決して豊かではなかったという記憶がある。

ツヤの教育の基本は、気位を高く持ち、卑しいことをするなであった。子供たちはそれぞれ順調に成長し、ツヤの安心立命の時代だったといえよう。だが、戦争は激しくなり三男を亡くし、四男が出征し、五男の私とツヤとの二人暮らしとなった。やがて私も征き、前回に書いた、8月15日早朝、有力なソ軍戦車集団が来襲する、という。集束手榴弾を抱えて、私も、今回で終わりだな、と覚悟せざるを得なかった。

——24年の人生を振り返ったが、ソ軍戦車に突入するとき、自分は何を叫ぶのか。

思い返してみたが、愛する女性の名前は浮かばない。だが、俺は将校だから、一番に飛び出さざるを得ない。そして、その時に「天皇陛下万歳!」と叫ぶか。あと、手榴弾を発火させるときは、「お母さん!」だなと、そう決めて、やっと落ち着いた。

タコツボの中で地面に耳をあてた。どんどん明るくなってくるのに、キャタピラの地響きはまだ聞こえてこない——。

「オカアサン、オカアサマ、オカアサマ。(一族の名前を列記)カズヲハゲンキデス。ニイサン、ネエサンタチ、オカアサンヲマモッテクダサイ。オカアサマ」(シベリアからの捕虜通信ハガキの第一号)

こうして、私は2年で復員し、読売社会部に復職した。それからまた、50年という長い時間が過ぎたが、ツヤは三男を亡くしたほかは、みな元気で戻ってきて、子は孫を産み、孫はひ孫を生んだ。ツヤの人生で、一番幸せの時間が流れていた。

99歳、白寿の祝いの時、私は考えた。ツヤの葬式で、名前も顔も知らないひ孫たちが来たら、困ってしまうな…と。そこで「孫子の会」という名前で、毎年、一族を集めて、ツヤに「だれそれの子供です」と、説明してやりたいものだ。それが、今できる最後の親孝行だろう。ツヤの円満な笑顔が目に見える。そして、108歳で亡くなった後、幹事の私が、引退しよう。「子」は私と四男、長女の3人だけであるが、「孫」は多数いる。そこで、「艶の会」と改名して、孫にバトンタッチをした。ツヤが死んだ時、父源四郎の墓に入れたのだが、骨壷から出して、2人の骨を土と交ぜ合わせた。やがて、盛岡でこの墓も無縁佛になるだろう。私のひ孫の時代には…。

これが、私と母・ツヤとの物語である。ソ軍戦車に突入する時に、「おかあさーん」と叫んで、私の人生が終わる。「天皇陛下万歳」は、そのずっと以前に呟く。シベリアからのカタカナの葉書が4枚。ツヤはキチンと保存していてくれた。

どうして「出会い系」とやらで危険が予知できるのに、少女は売春し、殺されたりするのだ。どうして、母は子を虐待して殺し、子は親を殺すのだ。

何かが間違っており、何かが欠落しており、親も子も、親や子でなくなっている。私の青春時代は、殺伐としてイヤな時代ではあったが、その中で、最低のモラルだけはみんなが、努力し、協力して残していた。それらが、どうして崩壊したのか。誰の責任なのか。そしてこれから、どうしよう、どうなろうというのか。

金のためにのみ生きる。これは政治家の責任である。そんな日本にした奴がいる。母ツヤが亡父の財産の大金を諦めた時から、彼女の幸せが、スタートしたのじゃないか。同時に私のそれも、「艶の会」のメンバーたちのそれも、そうなのだと思う。 平成13年11月19日

編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬

編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬 平成13年(2001)11月22日 画像は三田和夫80歳(左から2人目 三田和夫80歳の誕生日2001.06.11)
編集長ひとり語り第64回 デキチャッタ婚の誤謬 平成13年(2001)11月22日 画像は三田和夫80歳(左から2人目 三田和夫80歳の誕生日2001.06.11)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たちに送ったはがき
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たち・企業に送ったはがき(2001.06.01付)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たちに送ったはがき(宛名面)
2001年6月11日の80歳誕生日を前に知人たち・企業に送ったはがき(宛名面)

■□■デキチャッタ婚の誤謬■□■第64回■□■ 平成13年11月22日

さる11月9日午後、テレビのワイドショウの「特ダネファイル」で、芸能レポーターの石川なる人物が、話題になった女性タレントに関して、「…将来、デキチャッタ婚をしたい、といっていた」と語った。この話が事実なら、そんなことをいう女も女だが、シタリ顔で“デキチャッタ婚”を吹聴するこのレポーターもレポーターである。

この数年、誰がいい出したのか不明だが、“デキチャッタ婚”なる言葉が流行りはじめ、若いカップルの女性が、得意気に“デキチャッタ婚”です、などとほざいたりする。いうなれば、婚前性交のことで、しかも、十分に準備しないから、意に反して妊娠してしまった、ということではないか。

“意に反した妊娠”というなら、そういう妊娠をしないよう注意すべきであるが、男がまだフラフラしている時には、結婚を迫る手段として利用できるのだから、“意に反して”いない。生まれる前から、男女の駆け引きに利用されるのだから、赤ちゃんにとっては迷惑至極な話だ。

私は、このあたりに、いまの親の子殺し、子の親殺しの原因があると思う。つまり、親子の情愛が、そもそもから芽生えていないのである。互いに生活の利便に伴う道具なのである。尊敬の念などカケラもないだろう。

婚前性交が必ずしも非難されるべきものではあるまい。しかし、「子作り」はまったく別物である。夫婦の愛情にあふれた行為から、妊娠へと導かれるものであり、男女はこれから「人の子の親」になる重大な責任を自覚し、そのための努力をしなければならない。それが親子関係の基盤なのだ。

私は、親は子供の3歳くらいまで、惜しみなく愛情をそそぎ、親子の情愛の基礎を作れといいたい。それができた後は、容易には崩れない。いい親子関係が持続する。事実、私には、男、男、男、女と4人の子供がいるが、家族の事を重視せずに読売を退社したり、出版事業に失敗したりと、かなり野放図な生活を重ねてきたが、“殺され”もせず、“見捨てられ”もせず、現在も良好な親子関係が続いている。

それは、妊娠、いやそれ以前のセックスの段階から、「人の子の親」という自覚に、責任を覚えていたからであろう。そこが“デキチャッタ婚”との根本的な差異である。愛情からスタートするか、利便性のみに走るか…。

戦争というのも、兵士の多くが対面する“戦闘”から成り立っている。そこでは、自分が相手を殺さなければ、自分が相手に殺されるから、戦闘になるのである。人間が、人間を殺すというのは、ずいぶんツライことである。それが、見も知らぬ相手だったり、縁もゆかりもない外国人だったりするから、まだできるのである。いわゆる“鬼”になって殺せるのである。

だから、戦線では味方から戦死者や負傷兵が出たトタンに、鬼になれるのだ。それまでは、恐くて恐くてたまらなかったのに、勇気が沸いてくる。戦場心理ではさておき、それなのに、どうして、子供を殺せるのか。どうして、親の生命を奪えるのか。親子関係があった2人だけに、私には理解できない。

若い男女が、心を通わせるものには、セックス以外にも多々あるではないか。享楽的な性に趣くから、“デキチャッタ”ことになる。美術でも音楽でも、2人を結び合わせる“媒体”はセックスだけではないことを、若い女性はもっと真剣に考えるときがきているといえるだろう。

子供が“セックスの帰結”と見なされている限り、子の親殺しは続くであろう。殺すほうも、殺されるほうも、こんなに、人間として惨めなことがあっていいものか。 平成13年11月22日

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※三田和夫の癌が発覚(本人には知らせず)したのが平成13年9月初め。10月に一度退院するが、12月末に再度悪化、年が明けてから救急搬送。平成14年2月15日永眠。享年80歳。
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株式会社正論新聞社 社長・編集長
三 田 和 夫  80歳
◇◆◇◆編集長略歴◆◇◆◇
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫
「新聞記者・三田和夫の集めた取材資料を整理し活用する会」からのごあいさつ 2001.11.30 三田和夫

文中では、「編集長ひとり語り」が65回にもなり、と書かれているが、現在までのところ第64回が最終回で、第65回は見つかっていない。

また、この手紙が実際に発送され、入会金や年会費を払った人がいたのかどうかもわからない。日付を見ると「2001.11.30」とあり、約1カ月後の年末には食道に挿入されたステントの効果も失われ、もう起き上がることもできないほど癌が悪化していた。

もしかすると、10月にいったんは退院できたものの、11月末になると、自身の体調の再悪化にそれとなく気付き、そうした不安からこのような手紙を書いたのかもしれない。三田和夫が亡くなるのは、この手紙の2カ月半後、癌が見つかったとき医者が「余命6カ月」と言ったが、ほぼその通りだった。