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赤い広場―霞ヶ関 p018-019 ソ連代表部が動きはじめた

赤い広場ー霞ヶ関 18-19ページ 死体発見から1カ月半もたってからソ連代表部が動き始めた。
赤い広場ー霞ヶ関 p.018-019 The Soviet delegation began to move.

死体の取扱いは行路病死者に準ずる』ということになった。高橋事務官は稚内市役所、札帆の道庁などに、政府としては知らん頭をしているつもりだから、そのつもりで……と、念を押して歩いた。

死体は市役所の手でダビに付され、遺品は身許不明者のものとして、遣骨とともに保管された。こうして、事件は一まず落着し、死体にまつわる疑問と矛盾も煙となって立昇ってしまった。

ところが、死体発見から約一ヶ月半もたった、七月中句になって、ソ連代表部が動きはじめた。『かくかくしかじかの者が行方不明となっているが、その死体が漂着していないか』という間合せが外務省へ行なわれた。

もちろん外務省では、最初の方針通り知らぬ存ぜぬと突っぱねた。それではと、代表部からは領事部長のアナトリー・フヨードロヴィッチ・コテリニコフ二等書記官、セルゲイ・イワノヴィッチ・ジュージャ三等書記官の両氏が、七月二十二日東京発列車で札幌へと出発した。

二人は札幌で道庁を訪れ、稚内市と知ってさらに稚内に向った。稚内市役所を訪れた両氏は住所姓名不詳の行路病死者として片付けられたソ連兵の遺骨、遣品を受取ったのち、稚内市で漁民たちとパーティを開いたりした。漁船捕獲事件などで、神経過敏になっていた漁民たちの一部には歓迎の意を表するものもあり、宿舍への日共党員その他訪問客も多数あった。

こうして二人は七月末には東京へ帰ってきたのであるが、ともかく東京―函館―小樽―札幌―旭川―稚内と北海道を縦断する旅行を行ってきたのだった。

続いて、八月はじめ密入国した関が六日に稚内市で捕われ、九日にはソ連船ラズエズノイ号がだ捕されるなど、事件が最高潮となった八月十二日、コ、ジュ両人は午後三時半横浜出帆のオランダ船ジザダン号で、突如として本国へ帰ってしまったのである。

両人の帰国の状況は全く異例だった。ベリヤ旋風による粛正のための本国召喚だという説もあるが、真相は両人しか知らないであろう。従来元代表部員の帰国は、必らず十名前後以上の人数で行われており、それぞれ帰国すべき妥当な理由―在留資格が与えられず在日猶予期限がきて、退去処分がとられるべき者とか、担当の仕事が閉鎖されて不用となった要員とかーがあった者ばかりであった。また、その出発に当っては盛大な見送りをうけており、いわば正正堂堂たる帰国だったが、コテリニコフ、ジュージャ両氏の場合は、稚内旅行から帰って十日余り、関事件の真只中で、しかも二人限り、見送りとて数えるほどしかいなかった。

両人は三時半の出帆なのに、三時前から船室に姿をかくし、帰国の報が日本の新聞紙上に現れたのは、九月一日だったというほど、隠密裡の帰国だった。当局では初めて首をひねって考えはじめたのである。