その結果、治安当局筋の見解を綜合す
ると、この怪文書の関係者の一人として、元内調出向の通産事務官肝付兼一氏の名前が浮んできている。
この肝付氏に関しては過去において、極めて不可解な事件の関係者として、登場してきたという事実がある。どうやら問題はその当時にさかのぼらざるを得ないので、旧聞ではあるが一応説明しておこう。
二十八年七月十七日、サウジ・アラビヤ国大蔵省顧問という肩書をもつ、一人の外国人が羽田に降り立った。アブドル・アジース・アザーム博士という。同氏は仏伊で経済学を専攻し、元トルコ、イラン、イラク各国駐在のエジプト大使であり、元エジプト士官学校教授であり、アラブ連盟事務総長の実弟で、パキスタン駐在エジプト大使の伯父という、彼の国の一流の大人物である。
同氏の来日目的は、経済交流、通商協定、工業力や商社の調査であったといわれ、数億ポンドの工業計画やら、スーダンのダム、貯水池建設計画、不毛地開墾の技術援助などのプランを持っていたようであった。
ここまではマットウな話であり、それでよいのである。同氏の来日は日ア親善として極めて結構なことである。ところが同氏の来日と同時に不思議なことが起った。
氏はホテル・トーキョー五一九号室に投宿するや、同時に病気と称して一切の面会が拒絶され、一人の日本人が影の形に沿うが如く、常に氏につきまとっていたのである。
氏は七月十七日来日以来、八月二十八日上野精養軒で開かれた、石川一郎氏らによる経団連主催の歓迎会に姿を現わすまでの四十日間というものは、殆ど全く公的な活動を行わず面会謝絶となっていた。
しかし、事実は外出もしたし、客にも会っていたが、常に前記日本人の立会なしではいささかもの動きも見せなかった。部屋つきのメイドの話によると、氏は元気であり、面会を謝絶するような病人でなかったことは明らかであった。彼女はまた氏が自由行動を許されていなかったかどうかは別として、件の日本人のいないときは全く部屋に籠っており、単独行動をとったことはないと証言した。
これでは、まさに軟禁である。そしてこの日本人は通訳としてのみ、博士を歓迎しようとする日本アラビヤ協会や、近東アフリカ貿易会の人たちにその名前を知られていた。
この男が、元陸軍中将肝付雄造氏(陸士第十九期)を父に持つ、前記肝付兼一氏であったのである。そして、肝付氏は当時内閣調査室員であった。 〝日本の機密室〟員が通訳として、外国の経済特使につきまとっており、その特使の行動が極めて不可解なものであった。