向島工場内の、ソ連船セプザプレス号に無事乗船した。日本側当局もホッとしたのである。
同船は同日午後五時出港、帰国の途についたが、元代表部員サベリヨフ領事ら八名の帰国組も同乗していた。
なお、同年十一月一日、ラズエズノイ号の送還に当った、樺太炭積取船東洋丸の菊川船長から、小樽海上保安本部への報告によると、クリコフ船長は機密ろうえいの廉で、懲役十三年の刑に処せられ、豊原刑務所(推定)に服役中であるという。
このニュースが事実ならば、行方不明の漁船を探して、誤って領海を侵犯したクリコフ船長が、どうして重刑に処せられねばならないのだろうと、考えるのは私ばかりだろうか。
最後にロシヤへの郷愁を感じてという、アルバート・パーミン氏について語ろう。このパーミン氏こそ、先にのベた怪外人ヤンコフスキー氏である、と当局では判断している。ヤンコフスキーという、ロシヤ名前が意味する悲しい宿命。それは戦後、自由と共産と二つの対立した世界の間に流れる、血と政治と思想という〝渦〟である。
ソ連人といっても日本にいるのは、元代表部員の八名とその家族三名、通商使節団の八名、 合計十九名(三十年五月末現在)をのぞくと、すべてが元白系露人で、戦後ソ連籍を取得した連中である。
ところで白系露人の中にもなかなか頑固なのがいて、赤色ソ連政権の祿を喰むのを潔しとしないものもおり、法務省入管局の統計をみると、三十年一月末現在でソ連人一八六名、無国籍人八二八名(内白系露人四〇八名)となっている。これを都内(二十三区)でみると、ソ連人一〇七名、白系一四二名、その他の無国籍一二一名となっている。
もちろん、現在ソ連とはまだ外交関係はないが、ソ連人だからといって法的には一般米英人と変りはなく、単なる外国人にすぎないのである。ただ戦後に国際的な力関係が変ったので、彼ら戦後派ソ連人は、戦勝国民の方が何かにつけて有利だろうと、父祖の志を裏切ってソ連国籍をとったのだ。
ここから〝東京租界〟の渦がまき起る――横浜に住む流亡の白系露人老ミネンコ夫婦は、一流日刊紙に広告を出して、『私ことこの度ソ連国籍を放棄しました』と、元の白系にもどることを宣言した。
この措置はソ連政府が国籍離脱を認めない限り法的には無効である。しかし、老ミネンコ夫婦はこれによって白系としての感情的、社会的節操を恢復したつもりであろう。また同時に、 ソ連政府がこれら戦後派ソ連人に対しても、一般ソ連人と同様、旅行や住居の自由を認めないのだから、彼らにしてみれば、ロシヤに帰って故旧の地に昔を偲ぶこともできないし、赤いと みられることが、生活上にも不便が多いとすれば、ソ連籍を放棄するのが当然であろう。