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迎えにきたジープ p.090-091 街に流れ出したソ連色

迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin's new year's message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama's Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.
迎えにきたジープ p.090-091 Prime Minister Stalin’s new year’s message to the Japanese people in 1952, and Ikuo Oyama’s Stalin International Peace Prize, both showcase the Soviet friendship with Japan.

例えばソ連人が帰国するので船会社で切符を買う。その船賃とほぼ同額のドルが、口座から減っているという工合だ。しかし円関係は分らない。市中銀行に個人名儀の円預金を持っているのは事実だが、実態はつかめないでいる。

失踪したラ氏は四、五万円の金を持っていたというので、この千円札の行方を追及した。新しい千円札なら入手経路が分るからだ。失踪の日東京温泉でミストルコに二千円のチップをやったときいて色めき立ったが、誰が千円札の番号記号を覚えているだろう。話は横道へそれたが、このような話のまつわりつく林炳松氏が帰国した。しかも当局では北京から帰ってきたと信じている。果して再び、日中、日ソ貿易商社たちをあわてさせるような噂をふりまくだろうか。

四 街に流れ出したソ連色

他の政治、文化工作も、この経済工作と並行して活溌に行われていた。

シュメリヨフ文化代表の活躍もすさまじかった。第一期の時代も三菱仲二十一号館の図書館では、自由にソ連図書の閲覧を許していたが、七月ごろからは学生と勤労者に重点を置いた宣伝活動が激しくなった。

文化部内で、隔日か週二、三回の割で映画会、文化会が、日ソ親善協会を通して行われた。早大講堂ではソ連文化展や民族舞踊会が催され、専大ではロシヤ語友の会が文化部のザカローバ女史出席のもとに開かれた。朝鮮人に対しても旧朝連系学生の手で、映画、舞踊会が催された。

二十七年初頭のスターリン首相の年頭メッセーヂ、大山郁夫氏へのスターリン平和賞、いずれもソ連の日本への友好を誇示したゼスチュアだ。ソ同盟共産党小史、ハバロフスク細菌戦犯裁判の全貌など、モスクワ外国語出版所の刊行になる日本文ソ連図書のほか、ロシヤ語パンフレットやグラフが安価に街に流れ出した。ヴォルガの舟唄などソ連製のレコードも、本場もののヴォッカ、食料、調味料までが、街のロシヤ料理店に並んでいる。

政治工作の担当者は明らかではない。別表の、代表部組織をみても分る通り、明らかに政府(赤軍を含む)系統のものと党関係の系統とに分けて考えられる組織だからだ。大きくいえば、前述の経済、文化工作も政治工作に入るだろうし、現象面に現われてくる事実も何工作と分類できないものが多い。ここでは気にかかる事実を並べてみよう。

1952年1月
ソ連代表部機構

代表

陸軍武官府
海軍武官府
政治顧問室
経済顧問室

文化部
通商部
文官部
報道部
領事部
海軍部

連絡将校室
特別情報部
書記室

迎えにきたジープ p.176-177 スパイの逆用が米国の常道

迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.
迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.

普通、スパイは次のような過程を経る。要員の発見→獲得→教育→投入→操縦→撤収。従って、任務で分類するならば正常なるスパイ、複スパイ、逆スパイなどはこの取扱法をうける。二重スパイというのは、二次的な状態だからもちろん例外である。

奇道である敵スパイ逆用の場合は次のようになる。要員の発見→接触→獲得→操縦→処置。つまりこれでみても分る通り、獲得前に接触が必要であり、獲得ののちは教育も投入も必要なく操縦することであり、最後は撤収するのではなく処置することである。

正常なるスパイは、自然な流れ作業によって、育てられてゆくのであるし、確りとした精神的根拠もしくは、それに物質的欲望がプラスされているのであるから、そこに同志的結合も生じてくる。

逆用工作では、要員の発見は我が陣営に協力し得る各種の条件のうちの、どれかを持った敵スパイをみつけ出し、それを懐柔または威嚇で獲得するのであるから、同志的結合などは全くないし、操縦者は常に一線を画して警戒心を怠らない。

これが、アメリカの秘密機関の常道になっているのであるから、彼らはつねに猜疑心が深く、ギャング化するのである。ところがラストヴォロフと志位元少佐との関係を見てみると、そこには人間的な交情さえ見出されるではないか。

正常スパイでは、任務が終れば味方であり同志であるから、最後にこれを撤収しなければならない。逆用スパイの場合は撤収とはいわず処置という。つまり殺すなり、金をやるなり、外国へ逃がすなりせねばならない。鹿地事件の発端は、この処置の失敗である。

鹿地氏と重慶の反戦同盟で一緒に仕事していた青山和夫氏は、鹿地氏出現以来の言動から次のような十の疑点をあげている。

1 USハウスはどれも金アミがあり、塀には鉄条網があるのが原則だ——これは占領中の日本人の暴動を予防するためMPの指令でそうなっている。

2 自由に新聞、雑誌、ラジオを聞き乍ら、なぜ独立後直ちに釈放を要求しないか、なぜハンストをしないのか、だまってダラダラ生活するのは何故か。左翼として、必ず、このような場合はハンスト戦術をするべきだ、自殺はおかしい——芝居か架空の事件ではないか。

3 監禁なら当然新聞、雑誌、ラジオを自由にさせないはずだが。

4 米将校が定期的に訪問会談するのは、アメリカ機関としてコンスタントになっている証拠だ。鹿地が本当に「拒絶」しているならばコンスタントの会談はない。

5 鹿地は右翼から狙われているとの理由で保護を求め代償に仕事し、これはおそらく北鮮問題をアメリカに提供したのではないか。北鮮との関係をホラをふいて、アメリカをだましたのではないか。

最後の事件記者 p.222-223 典型的な幻兵団のケース

最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。
最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。千里の名馬が伯楽を得た感じだったので、私はさらにどんなに彼を徳としたことだろうか。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。

三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。

満州部隊から入ソ、マルシャンスク収容所で選抜されて、モスクワのスパイ学校入り。高尾という暗号名を与えられて誓約。個人教育、帰国して合言葉の連絡——すべてが典型的な幻兵団であった。

姿を現わしたスパイ網

三橋を操縦していたのは、軍情報部系統の極東軍情報部で、ラ中佐などの内務省系ではなかった。従ってレポに現れたのは、代表部記録係のクリスタレフ。二十四年四月に、十二日間にわたって、麻布の代表部で通信教育を行った時には、海軍武官室通訳のリヤザノフ(工作責任者)、経済顧問室技師のダビドフ、政治顧問室医師(二十九年九月にエカフェ会議代表で来日)のパベルの三人が立合っている。

二十三年四月十七日に、クリスタレフとのレポに成功してからは、大体月一回の割で会い、翌年八月二十日ごろまで続いていた。二十四年四月には無電機を渡され、ソ連本国との交信八十二回。同五月からは、元大本営報道部高級部員の佐々木克己大佐がレポとなり、二十五年十一月に自殺するまでのレポは五十七回、その後にレポが鹿地に交代して、二十六年六月から十一月までに、十五回にわたり電文を受取った。

この間の経過は、すべて米軍側の尾行、監視にあったので、米側は全く有力な資料を得ていたことになる。電文は七十語から百二十語の五ケタ乱数だったが、米軍では解読していたのだろう。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

最後の事件記者 p.236-237 日暮、庄司、高毛礼の検挙

最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。
最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。

ラ書記官の失踪はソ連代表部から警視庁へ捜索願いが出たことから表面化したのだが、その外交官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だったというばかりか、失踪と同

時に、米国へ亡命してしまったということが明らかになった。

この事件ほど、当局にとって、大きなショックだったことはあるまい。米側の手に入ったラ中佐は、直ちに日本を脱出、在日ソ連スパイ網について供述した。その間、日本側が知り得たことは、ラ中佐の失踪を知って、警視庁へ出頭してきた、志位正二元少佐のケースだけである。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

ヤキモキしているうちに、米側から本人を直接調べさせるという連絡があり、七月中旬になって、公安調査庁柏村第一部長、警視庁山本公安三課長の両氏が渡米して、ラ自供書をとった。

両氏は八月一日帰国して裏付け捜査を行い、日暮、庄司、高毛礼三外務事務官の検挙となったのだ。もっとも五月には、米側の取調べ結果が公安調査庁には連絡された。同庁では柏村第一部長直接指揮で、外事担当の本庁第二部員をさけ、関東公安調査局員を使って、前記三名の尾行、張り込みをやり、大体事実関係を固めてから、これを警視庁へ移管している。

この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。東京外語ロシア語科出身、通訳生の出で、高文組でないだけに、一流のソ連通でありながら、課長補佐以上に出世できない同氏の自殺は、一連の汚職事件の自殺者と共通するものがあった。現役外務省官吏の自殺、これは上司への波及をおそれる、事件の拡大防止のための犠牲と判断されよう。そして犠牲者の出る事実は、本格的スパイ事件の証拠である。

スパイは殺される

ソ連の秘密機関は大きく二つの系統に分れていた。政治諜報をやる内務省系のMVDと、軍事諜報の赤軍系のGRUである。三橋のケースはGRU、ラ中佐はMVDであった。第二次大戦当時、ソ連の機関に「スメルシ」というのがあった。これはロシア語で、〝スパイに死を!〟という言葉の、イニシアルをつづったものだ。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

赤い広場―霞ヶ関 p040-041 “東京租界”にひそむ謀略の黒い手。

赤い広場―霞ヶ関 p.40-41 “東京租界”にひそむ謀略の黒い手。
赤い広場ー霞ヶ関 p.040-041 A trap of stratagem hidden in the foreign settlement of Tokyo underworld.

赤いとみられることが、生活上にも不便が多いとすれば、ソ連籍を放棄するのが当然であろう。

この傾向はスターリンの死とともに、一そうハッキリとしてきて、ミチューリン、スコロボード、アハナシェフと後に続くものたちが現れた。さらに目黒に住む元ロシヤ近衛騎兵大尉チェレムシャンスキー、元参謀大佐ストレジェンスキーらが白露委員会を組織した。

だが、最初に国籍放棄をして〝白〟に返った、老ミネンコ夫婦の小ミネンコは、あくまでソ連人である。それどころか、巣鴨にある赤系の本拠ソ連人クラブの委員で、いろいろな事業を活溌にやっている。

そしてまた、このヤンコフスキーである。この一家には第二次大戦中、ウラジオから北鮮清津に渡ってきて、〝ある目的〟の仕事をしていた、白系露人老ヤンコフスキーを父として、三人の息子と二人の娘がいた。

その息子の一人、アルセーニェ・ヤンコフスキーは米国籍人となり、歴とした情報担当の中尉となり、クリコフ誘致工作をやっている。他の二人の兄弟と父とはソ連に、二人の娘は中共治下の上海と南米チリとに、それぞれ別れ住まねばならなくなってしまった。

このヤンコフスキー一家の渦、これもミネンコ一家の渦と同じように、民族の宿命を肯負って〝東京租界〟の濁流へと流れこんでくるのだ。

白露委員会の幹部たちは、うらぶれた屋根職人や裁縫師にすぎないのだが、ソ連人クラブに集まる人たちは堂々たる実業家ばかりである。何のための事業であり、資金はどこから来、利潤はどこへ行くのか。

〝東京租界〟とは、単純な不良外人の巣喰う犯罪都市のことではない。密航と密輸と、賭博と麻薬と、そして売春、ヤミドル、脱税――この七つの大罪のかげには、謀略の黒い手がかくされているのだ。(第三集「羽田25時」参照)

秘められた「山本調書」の拔き書

一 先手を打つ「アカハタ」 二十九年八月十四日、ラストヴォロフの亡命について、日米共同発表が行われた。その三日後の十七日に、警庁記者クラブの公安担当記者たちと、当局側の指揮官山本鎮彦公安三課長(現同一課長)との懇談会が聞かれた。

その席上、山本課長はワシントンでのラ氏取調の状況をこんな風に話していた。

山本課長と公安調査庁の柏村第一部長(現警察庁次長)とが、ラ氏にはじめて逢ったのは、ワシントン特別区内のあるビルの一室、せいぜい六坪ぐらいの簡素な事務室であった。

赤い広場―霞ヶ関 p042-043 ワシントンで亡命ラストヴォロフの聴取。

赤い広場―霞ヶ関 p.42-43 ワシントンで亡命ラストヴォロフの聴取。
赤い広場ー霞ヶ関 p.042-043 Hearing of the last exiled Lastvorov in Washington.

山本課長と公安調査庁の柏村第一部長(現警察庁次長)とが、ラ氏にはじめて逢ったのは、ワシントン特別区内のあるビルの一室、せいぜい六坪ぐらいの簡素な事務室であった。

二人が部屋に入ったときには、すでにラ氏は椅子に腰かけて待っていた。課長はいままで写真で見馴れている顔だったので、すぐラ氏だと分ったし、ラ氏に間違いないと思った。彼はソ連人と思えないほどしょうしゃに背広を着こなしていた。

誰も紹介はしなかった。たがいに立上って手を差し出した。課長が、

『ハウ・ア・ユウ』

といったのに対し、彼は明るく笑って、

『ゴキゲンヨウ』

と答えた。ほんとに明るい笑顔で、なんの屈託もなしに、アメリカの亡命生活を楽しんでいるようだった。

取調べには、何人かの米側係官も立会っていた。通訳は使わず、すペて流暢な日本語が使われた。課長は自分で訊問し、自分で調書をとった。米側でも二世が同時に調書をとっていた。午前と午後、昼食時に一休みするだけの毎日が、一週間続いた。夜はホテルで調書の整理につぶれ、遊びに行くどころではない。調べの場所は毎日変った。

すっかり調ベが終って、いよいよ最後という日に、少しばかり雑談が出た。取調べ中にラ氏が話す東京の地理がとても明るいので、課長が感心してみせると、

『もう一度 、東京で暮したい。……だけどその時には、もう貴下の部下も私を尾行しないでしょうね』

と、さびしく笑った。

 最後の別れの握手をしたとき、課長はこの一週間の間、莫然として感じていたことにハッと気がついた。

『何を惑じていたと思います? それは、彼の手がいつもいつも、冷たいンですョ。顔はあんなに明るいのに……』

課長は居並ぶ記者連を見渡しながら、こう話の締めくくりをつけて笑った。

こうして課長は一週間にわたって聴取った調書を携え、八月一日に帰国した。これこそラストヴォロフの吿白「日本をスパイした四年半」の一切合財なのである。この調書に現れた人名こそ、彼の協力者たちであるか、他のソ連人の手先であるか、いずれにせよソ連スパイ網に躍っていた人たちである。

それから二週間、この調書の裏付け捜査が公安三課全員の努力で、突貫作業となって行われた。多くの人が任意出頭という形式で呼ばれて調べられたり、訪ねてきた刑事に訊かれたりした。尾行や張り込みも行われた。

赤い広場―霞ヶ関 p054-055 米軍一等兵の愛人、鈴木千鶴子。

赤い広場―霞ヶ関 p.54-55 米軍一等兵の愛人、鈴木千鶴子。
赤い広場ー霞ヶ関 p.054-055 Chizuko Suzuki, Mistress of the 1st class soldier of the U.S. Army.

さらにジェニーことヴァイングトンという極東空軍の一等兵がいる。彼には新橋駅付近にたむろする夜の女で、鈴木千鶴子さんという愛人がいたのだった。彼女の新橋での通称は遠慮して、小柄などちらかといえば可愛い型の子である。

ジェニーは一等兵だからあまりお金を持っていなかった。だが、やがてお金をつくる方法を思いついた。部隊の話をソ連人が買ってくれるだろうというのである。ミグで脱出した北鮮人のように、十万弗ぐらいはくれるかも知れないと考えた。しかし、どうしたらそのソ連人に逢えるか分らない。そこで彼女に相談してみた。

彼女の答は簡単だった。

『ソリャ、ソ連大使館できけばいいわよ』

『どうして行って、何てきくんだい?』

『いいわ。アタシが行ったげる……』

こうして彼女は麻布の元代表部に、一人でのこのこと出かけていった。その時に彼女の話に乗ってきたのがラストヴォロフだったのである。

元代表部にはこのほかにも、米兵自身のネタの売込みなどの例があった。しかし、そんなのはとるに足らないので、ウルサク思ったソ連側では、その米兵の部隊に通知してやったということもあった。

彼女の話で、ラ氏は出かけてきてジェニーとレポをした。これをつかんだのが当局である。 こうして、ラストヴォロフ二等書記官は注視され、やがて実は政治部中佐という階級を持つ、 内務省系のスパイ組織者だということまで分ってきた。

そのころにはすでに日本は独立国となり、刑事特別法という、駐留米軍の機密を守る法律ができていたのである。ラ氏の行動は同法違反であるという確信を得た。

当時の課長は、何しろメーデー事件や五・三〇、六・二五各事件で、断乎として大量の朝鮮人を検挙して、〝坊ちゃん課長〟から〝鬼の山チン〟に変えられたほどの山本課長である。土性ッ骨が太くて、思い切ったことを果断実行する人である。

課内の意見は、「現行犯検挙」と決った。さらに、検察庁、外務省など関係当局との間で幾度か会議が開かれ、警視庁の意見が容れられた。この時には伊関国際協力局長、新関欧米第五課長などが相談にのり、検挙後の外交交渉の問題などが研究されていた。そして、新関課長の腹心日暮氏が、また当然その諮問に応じていたのである。

ジェニーの彼女は日本人であった。係官が事件の理由を説明して、率直に彼女の協力を求め た。

赤い広場―霞ヶ関 p056-057 日暮が警察の待ち伏せをラストヴォロフに通報。

赤い広場―霞ヶ関 p.56-57 日暮が警察の待ち伏せをラストヴォロフに通報。
赤い広場ー霞ヶ関 p.056-057 Higure tells Lastvorov the ambush of the police in secret.

彼女ははじめて事の重大さに驚いて協力を約束した。この間の経緯は将来に備えて、正規の警察官調書となって、彼女の署名捺印とともにいまも当局に残されている。

こうして、米兵とラ氏とのレポの時間と場所が判明した。だが、その現場を包囲した係官たちの顔には、ようやく焦躁の色が浮んできた。米兵は定時刻に現れたが、ラ氏は来ないのである。

ラストヴォロフはついに、現れなかった。何も知らない米兵と、何も彼も知っている係官たちとは、それぞれに失意のうちに帰っていった。ラリー大尉も、ジェニー一等兵も、そしてソ連人と親しくしていた他の米兵も、本国へ送還されたことはもちろんである。

「山本調書」には、この件りについて次のようなラ氏の供述が書いてあるという。

……警視庁の係官たちが現場に張り込んでいる。危険である。という日暮からの知らせがあったので、それ以後はその米兵と会うのは止めました。

当時、日暮氏はモスクワ時代の〝事件〟について、率直にその旨を上官に申告していたのである。だが上官たちは、自己にその責任の及ぶことを恐れ、また或いは対ソ情報源としてその〝事件〟と〝事実〟とを黙認していたといわれている。もしこれが事実ならば、この上官たちには何の責任もないものだろうか。日暮氏のこのラ氏への通報は、明らかに公務員法第百条違

反であろうが、日暮氏一人に負担させられるべき性質の問題だろうか。

また日暮氏の供述には新日本会グループのことがある。私はこのことを〝説“として以下に紹介したが、彼はこれを〝事実〟として供述しているのである。

さらにまた、内閣調査室における複雑な彼の立場がある。彼はまたこの事実も語っているのである。

自供しようが、否認しようが、また、その名前が公表されようが、されなかろうが、〝スパイ〟は殺されるのである。長谷検事はこういっている。『きよう出来上った調書が問題で、内容を明らかにすれば自殺者の気持が判ると思う』(八月二十八日付毎日夕刊)

一切を否認して、左翼系の自由法曹団の庇護を受けて強弁する庄司氏の態度よりは、率直に一切の真相をブチまけ、ソ連の諜報謀略工作の全貌を当局に教え、さらに政府内部への忠告として、外務省幹部たちの氏名と、その非日活動(という言葉が当るならば)の事実とを曝いた、日暮氏の勇気ある行動は、やがて史家によって認められ、賞讃に値することになるに違いない。

後に遺された幼い子供達の、健やかな成長のためにも、その日のあるを願ってやまない。日暮氏もまた、ソ連スパイ組織の脅迫と強制とによって、その平和と幸福とを奪われた一人であるから……

赤い広場―霞ヶ関 p060-061 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?

赤い広場―霞ヶ関 p.60-61 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?
赤い広場ー霞ヶ関 p.060-061 Ambassador Sato Naotake directed cooperation with the Soviet Union?

このグループのイニシァチヴをとったのは渡辺記者であり、懐疑的だったのは大隅書記

生であり、大使との連絡係は日暮書記生であったといわれる。

ラストヴォロフはその手記で、『この五人を一人ずつ、他の者にわからないように、買収しにかかった』と述べているが、やはり当時の関係者の談話を綜合してみると、ラ氏手記は若干違うようである。

新日本会そのものの出発は、ラ氏手記にあるような目的だったらしい。ところが、結成後の会の運営は、「ソ連側に協力する」という方向へすすみつつあったので、これはイカンと云い出したのが大隅氏で、リーダー格の渡辺氏と論争ばかりしていた。これをマアマアと大隅氏をなだめて、「協力」の方向へ一致して進もうとすすめたのが、日暮氏だという。するとラ氏のいう『他の者に分らないよう』というのは少しズレている。少くともこの五人のメムバーはその任務について論じ合っているのだから。

ところが、さきほどの佐藤大使召喚の説である。これによると、大使はソ連側に呼ばれて、〝協力を要請〟された。平たくいえば、スパイになるか、或は部下からスパイ要員を出せということだ。

これに近い例は、シベリヤ捕虜でも、常に連隊長、大隊長などの最高責任者に要求し、応じなければ長以下全員を苦しめる。そこでその長が屈服して要求に応ずるということだ。第集

の幻兵団の、山田乙彦獣医大尉の大隊が悪条件の伐採に出され、山田乙彦大尉は部下のために誓約したのなどもその例である。

大使は困って、帰館してから腹心の日暮書記生を呼んで、因果を含めて「協力」させ、新日本会全部がその方向に向ったという説である。佐藤尚武氏は参院議長もやられた外交界の大長老であるから、失礼にならぬよう〝説〟と申上げるが、日暮、庄司両氏が逮捕されたときには佐藤大使の身辺危うしの説が流布されていたのは事実である。

そして、大隅氏が説得されて、新日本会の方向が「対ソ協力」と決定されてから、軟禁されていた日本人たちの行動の自由が恢復し、街へ買物にも行けるようになってきた。そこでスパイ誓約書の署名などという、ソ連式儀式が行われたかどうかは知らぬが、私がスパイになることを承知してダモイできたように、この外交宕たちも敗戦の犠牲となったのであった。 果して、帰国後、佐藤大使以下のモスクワ駐在日本人たちのうち、誰と誰とに合言葉のレポがあったかは、私には分らない。ともかく警視庁の捜査当局は、新日本会の会員(?)であった日暮、庄司両氏だけを逮捕したのであった。もちろん他の人々、公務員も民間人も、参考人として任意に出頭して、或は泣きながら、或はオドオドしながら、当時の事情を供述し、その止むを得ざりし環境を釈明したのであった。

赤い広場―霞ヶ関 p062-063 内調の内紛を暴露するアカハタ。

赤い広場―霞ヶ関 p.62-63 内調の内紛を暴露するアカハタ。
赤い広場ー霞ヶ関 p.062-063 The Akahata exposes the internal trouble of the Cabinet Research Office.

そして、それらの人々は、もちろん、日本の社会の指導階級ともいうべき、あらゆる地位にあり、教育も、名誉も、さらに将来をも持っている人たちばかりであった。

そして「アカハタ」はこのメムバーを先手を打って発表しているのである。

三怪文書おどる内閣機密室 総理府官房調査室、略して内調は日本の機密室である。二十七年四月、特高のなくなった戦後に警備警察制度を設け、国警本部初代警備課長となった内務官僚村井順氏によって創立された情報機関である。

この調査室は創設以来あらゆる意味で各界から注目されている。二十七年十二月、当時の緒方副総理の提唱した、新情報機関の構想の基礎となったのも、この内閣調査室である。

ところが、さる三十年四月下旬ごろ、その内情について、いわゆる〝英文怪文書〟が、各官庁、政府内部にバラまかれた。戦後の大事件である帝銀、下山、松川、鹿地などの事件に登場した〝英文怪文書〟の伝である。

つづいて、この英文とほぼ同内容のガリ版刷り怪文書が、「極東通信社極秘特報第一〇八号」と銘打たれて、再び関係各方面にバラまかれたのである。

その内容は、ラストヴォロフの手先のスパイが内調に喰い込んでおり、重要機密を抜かれた内調ではその対策に苦慮しており、木村室長は辞意を表明したが、結局は引責辞職せざるを得

ないだろう、という要旨である。

この怪文書の狙いは、明らかに前警察庁人事課長という内務官僚である、木村行蔵の追 い出しを図ったものである。では、この内務官僚の追い出しを図ったのは誰か?

怪文書とはしょせん怪文書であり、’デマである。こうしてはしなくも、ここにその内情をバクロした〝日本の機密室〟の内粉の真相は何か?

これこそ内調創立当時の村井順室長(現京都警察隊長)と曾野明外務省情報文化局課長(現ボン駐在参事官)との対立にはじまる、内務対外務官僚の主導権争いであり、同時に如可に官僚たちが、この小さな機関の将来を重要視しているかということである。

この争いが、祖国を想う至情からの争いならば、何をかいわんやであるが、果して事実はどうか。ここにその実情を抉ってみよう。

まず、怪文書からみよう。昭和三十年四月二十日付の「極東通信社極秘特報第一〇八号」は、普通の白角封筒の裏に「極東通信社」とのみ、下手なペン字で記されて、同日東京中央局の消印で配達されている。

このペン字は、筆跡をわざとゴマカして、左手かまたはペンを逆に使った字である。内容はワラ半紙にやはり下手な横書の字だ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.074-075 デマの出所は曾野氏なのか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.074-075 Is the false rumor coming from Sono?
赤い広場ー霞ヶ関 p.074-075 Is the false rumor coming from Sono?

これについて、村井氏はこの四案を携行して、米CIA長官アレン・ダレス氏か、もしくは

その最高スタッフに会って、その意見をきくための外遊だったという。そしてそのために吉田首相の直筆の書簡をも、持って出かけたというのである。

もともと村井―日暮―曾野という三角関係では、村井、曾野両氏とも、日暮氏の〝特殊な事情〟を充分承知していた。ただ村井氏は積極的に日暮氏にソ連人との接触を認めて、その対ソ情報の確度を高めさせようとしていた、といわれるのに対し、曾野氏の方がズルクて、日暮氏とソ連人との接触を知っておりながら、知らぬ振りをしてその対ソ情報だけを吸上げていた、といわれているのである。

いずれにせよ日暮氏は村井氏の腹心であったから、村井氏の外遊目的を知っていた。そしてその目的がラ氏を通じて流れた。

ここで余談になるが、英国の諜報機関について一言ふれておこう。ソ連の機関員は党員で、しかも訓練と教育をうけた経歴のあるものでなければならない。英国のシークレット・サービスは、親子、孫という深い家系によらなければならぬという鉄則がある。これがソ連と英国の秘密機関の伝統であり、その世界に冠たる所以でもあるのだ。

この英国の機関は、対米という点ではソ連機関の線とダブッている場合が多い。そこで日暮―ラストヴォロフと流れた村井外遊の真相は、英国秘密機関の同時にキャッチするところとなり、上川私信の通りワーン飛行場に英国諜報官が出迎えることになったのであろう。

さて村井氏が、この〝情報〟の伝える真の使命を、書類を奪われることなく果し得たのか、或は上衣まで切開かれて、君命を辱しめたのか、そこは分らない。そしてまたこのような国家的秘密、ましてや吉田秘密外交のそのまた秘密などは、一新聞記者の身として、第三者に提示し得るような確証を得ることは、不可能に近いのである。

もちろん、村井氏は否定した、肯定するはずはあるまい。ただ筆者としては、そのニュース・ソースである〝信ずべき筋〟への信頼の度合と、その前後に現れた具体的徴候とによってのみ、僅かに判断し得るのである。

「三千ドルのヤミドルで腹巻まで切り開かれた」というデマの根拠は、上川氏が曾野氏へあてた前記の私信である。しかも、その私信には「上衣まで切り開かれた」とはあるが、三千ドルのヤミドルなどとは全く書かれていない。根拠となった私信が、曾野氏宛のものであるからには、デマの出所も曾野氏と判断されても致し方がなかろう。

村井―日暮―曾野という線で、村井氏の外遊目的を知っていた曾野氏も、その国家的影響を考えて、一切をバクロすることを慎んだのではあろうが、村井氏の旅費が国庫から出ていないという、不明朗さを同時に衝くためにも、このような三千ドルのヤミドルというつけたり で、デマをまくようにしたとも判断されるのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 スパイの手記は信じられるか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 Lastvorov, Shoji Shii-Are Spy's Writings Believable?
赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 Lastvorov, Shoji Shii-Are Spy’s Writings Believable?

しかし、志位氏がラ氏の協力者だったということも、両者の自供以外には何も物証はないのである。もっともこの場合には、両者の自供がおおむね一致したのだから問題はないが、二十九年八月二十九日、読売がスクープした「志位自供書」および、週刊読売同年九月十二日号の「志位正二手記」を読んでみると、その事実を立証すべき第三者の、全く関与しない二人だけの環境下のことだけに、疑えばきりのない内容でもある。

もともと、スパイ事件というのは相対的事件であり、双方の利害が直接からみ、それが国家という大きな背景だけに、発表はつねに当事国の利益を守って行われざるを得ないのである。従って本当の真相は、永遠のナゾのままに秘められてしまうのであるし、関係者の数が少ないのだから、いよいよ分らなくなる。捜査当局である警視庁の発表も、刑事特別法という法律の素性から、日本と米国の共同の国家的利害という背景で行われるのだから、すべて事実とは限らないし、警視庁自身もその捜査経過や何かで発表したくないこともあろうし、関係者自身の利害や都合も配慮されるであろう。

従って公表された手記なるものも、常に真実ばかりであるとは限らない。某係官が文芸春秋のラ氏手記を評して、『スパイの手記がその大綱はともかく、細部にいたるまで常にその真相を明らかにするものではない、という常識がよく判る』と洩らしたように、その手記の内容で、数字とか名称とかが、意識的に伏せられるのは事実である。

大体からして『私はスパイだった』『私は〇〇機関員だった』と名乗り出るスパイなどというのには、余り大物がいないことも確かである。これはスパイという特殊な任務についた人物が、任務終了後も自ら自分自身を顕在化するということは、とりも直さず彼自身の任務や地位が、それほど重要ではなかったということでもある。

ラ氏にせよ、また西独で亡命したホフロフ大尉などのように、具体的な事件によって自らの意志に反して顕在化された人たちの手記はまた違うが、顕在化される要因もないのに名乗り出た例が極めて多い。

例えば、「風が私を連れてゆく―赤い日本人スパイの手記」(日本週報二十六年五月五日号)小森(筆者名は小森氏という紹介のみ)は有名な情報プローカーで、ついにニセ記者やニセ特審局員の寸借サギで逮捕された男であるし、「私はアメリカのスパイだった」(話二十六年九月号)小針延二郎氏は、読売の幻兵団キャンペインのキッカケとなってから、自分が英雄であるかの如き錯覚におち入り、情報ブローカーになって、ニセ記者の寸借サギという、小森某と同じケースを辿っている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 眼下の路地で口笛が鳴った

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. "Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)"
赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. “Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)”

ユーリは、はじめのうちには二、三人のソ連人と一緒にやって来たが、一年目頃からは、一人で車を飛ばして、連絡場所にやって来るようになった。

東京における、彼らソ連人の行動は、私にとってなかなか興味深いものであった。(中略)

二月三日の夕暮れどき、当時すでに幡ヶ谷のアパートに転居していた私は、二階の自室で節分の豆撤きしながら、何気なく窓を開けると、眼下の路地で口笛の鳴ったのを聞いた。

ピューッというソ連人独得のあの鋭い口笛だった。誰か連絡に来たのかも知れない、と咄嵯に考えて、私はオーバーを着込んで外へ出た。口笛のした方向に二、三間注意深く歩いて行くと、電柱の陰から一人の男が現われて、私に触れんばかりに近寄り、声を殺して冷たくいった。

『サヴェルシーチェ・サマウビーストヴォ!(自殺しろ)』

その男はそれだけいうと、そのまま甲州街道のほうに去ってしまった。

私はその瞬間、恐怖にとらわれて全身を硬ばらせた。が、その次には無性に癪にさわって、怒りの感情がこみ上ってくるのを覚えた。(中略)

二月四日の夜は都内の旅館に泊った。そして私の考えた結論、それは『私の運命を決めてゆくのはこの私自身だ』という平凡なことであった。五日の朝、私は東京警視庁の石段を登っていった。私の「独相撲」には終止符が打たれたのである。

この手記のうち間題となるのは、〝自殺せよ〟とささやいた男の件りである。ラ氏が失踪してからのち、彼の協力者であった志位氏のもとに、果して誰が何の目的で〝自殺せよ〟とささやく必要があるのであろうか。

抹殺する必要があるなら、ささやくよりも黙って殺すであろうし、脅かせば敵陣営内に逃げこむことは、その後の事実の通り明らかである。志位氏は私のこの疑間に対しても、『自分自身も何のため、このようにささやかれたか分らない』と答えて、その場の状況を、手記の通りに繰返すばかりであった。

捜査当局では、志位氏の供述によって、この〝ささやいた男〟を捜査した。志位氏は、この手記では「一人の男」とのみ書いているが、週刊読売には「一人の見知らぬ男―多分東洋人であったろう―」と書いているし、当局への供述では『最初のレポのジープの運転手だったような気もする』といっている。 そこで、当局では元ソ連代表部に関係のある人物すべてを網羅した、然るべきアルバムをみせて、一人一人の〝面通し〟をしたところ、『これではないか』と、彼が記憶を頼りに指摘した数人の人物は、いずれも当時は日本にいない人物だった。その結果、当局では志位氏の記憶が不正確なのか、或は故意に適当な人物の写真を示したのか、というようなアイマイな結論を出したが、当局もまたこの部分の信ぴょう性について、深い疑問を抱いたままでいる。

赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 山本調書に都倉栄二の名も

赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 Rastvorov did not evaluate Eiji Tokura at all. why?
赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 Rastvorov did not evaluate Eiji Tokura at all. why?

ことほどさように、一度でもソ連の地を踏んだことのある外交官、記者、会社員などで、ソ連に対する忠誠を誓わせられなかったということは、極めてまれなことなのである。

全権団随員という、栄えある立場にある都倉氏に対しては、誠に申訳ない限りであるが、同氏もまたその例外ではなかったのであろう。ともかくラストヴォロフの供述として「山本調書」に氏の姓名が記されていることは、事実なのであるから。

つまり、私が志位対吉野の関係で、日暮対庄司を想い浮べ、また都倉氏を想い出したというのは、同氏に関するラストヴォロフの告白が、同氏を全く評価していないからであるのだ。

ラ氏によれば、彼は東京で都倉氏に連絡をつけたのだったが、都倉氏は全くこれに応じなかったというのである。これは日暮氏が反共理論家として有名な存在であったのと同様に、省内外に聞こえた〝右翼〟である都倉氏にとって、極めて有利なラストヴォロフの供述である。

もちろん、ラ氏が都倉氏を評価しなかったという供述があったればこそ、外務省当局もまた、氏を、全権団随員の一人に加えたのでもあろう。これは、都倉氏にとって名誉なことである。また、練達の外交官であり、一つの科学にさえなっているソ連秘密機関の誘惑術をも、敢然と拒み通した同氏が、多難の日ソ交渉に力をいたすことに大いに、期待するものである。

ある治安当局の一幹部はラストヴォロフ・スパイ事件捜査の経過を顧みながら、こう述懐していた。

『捜査の基礎となったものは彼の供述(註、山本調書)であるが、全般的な捜査の経過と結果とから考えてみると、どうも氏はすべてを告白していないという気がしてならない』

モスクワに残してきた妻子の安全を願うが故に、「彼(註、ラ氏)の指摘するところによれば、ソ連内務省が彼の的確な所在ないし、地位について疑問を抱いている限り、彼らは恐らく、彼の八才になる娘に対して、残酷な行動に出ることはないであろう、とのことでありました」(米大使書簡)「なかんずく同人の自発的離脱がソ連内務省に確知された場合、同人の家族に危害の及ぶことを恐れ、可能な限り単なる失踪として、取扱われたいという本人の強い希望に基き」(日本政府発表)と願ったラストヴォロフは、どうして失踪以来半年を経て「亡命」であることを、発表することに同意したのであろうか。 この半年の間に彼の妻子の安全は、如何に確認されたのであろうか。濠洲のペトロフ大尉の亡命のように、本国へ連行される夫人を奪取したというのならばうなずけよう。アメリカの秘密機関は、モスクワからラ氏夫人と愛娘とを救出して、同様本国へ連れてきたというのだろうか。そんなことはあり得まい。二十九年一月二十四日のラ事件以後、彼の妻子の消息については全くニュースがないのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 ラストヴォロフは亡命ではなく拉致か

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?
赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?

ここで私は、ラ氏の評価が現実の志位対吉野、日暮対庄司の関係と、さらに前記の当局一幹部の言とを思い合せて、ラ氏の〝自発的離脱〟ということに深い疑問を覚えるのである。つまり亡命ではなくして、拉致であるというのである。

妻子をもすてた真の亡命であるならば、彼は完全な世捨人である。一切の真相を語り終って静かに余生を送るであろう。

彼が真相を語っていない、祖国ソ連に反逆していない、ということは、彼の告白は相当な鑑定を必要とする。例えば逆のことを語っているのではないか。信頼していなかった志位氏を信頼しているといい、高く評価している吉野氏を情報プローカーと極めつけるといったように。

すると、ラストヴォロフの失踪は、亡命でなくて拉致である。アメリカ得意の〝人浚い〟〝引ったくり〟である。すると、彼の妻子の安全は事実である。

ラ氏が拉致され、彼がウソをついてたとなるとこれは事件である。三十年五月二十五日付朝日新聞が報じた、外交暗号がソ連に解読されているのではないかという心配(元ハルビン特務機関長小野打寛少将から、公安調査庁を通じて外務省へ提出された意見)は、より大きくなって、暗号以前のものが筒抜けになるのではないか、という心配にならねばならない。

志位、吉野という二人のラ事件関係者のとった対照的な立場は、私には人間の自己保存の本能がそれぞれの形をとったものだと思われる。即ち一人は顕在化されることによって、死の恐怖から逃れ得ると信じ、一人は顕在化されることが、死の恐怖へ連なるものと信じているのであろう。

そして私は、幻兵団キャンペイン以来の信念で、志位氏の立場こそ、米ソ秘密戦の間にまきこまれた日本の犠牲を、最小限に喰い止め得るものだと思っている。

五 暗躍するマタハリ群像

強盗、殺人の一課モノ、詐欺、汚職の二課モノと、風紀衛生の保安、それに思想関係の公安。警視庁詰記者の担当は、ザッとこんな風に分れている。

どの分野にしろ、調べ室や事務室をのぞいてみて〝敵情〟を偵察し、係官たちとの雑談から片言隻句の〝情報〟を得て、そこで作戦参謀として最後の〝決心〟を下し、原稿を書くことに変りはない。これが「取材」であり、「発表」と根本的に違う点である。

だがこれらのうちで、絶対にふだんの努力がなければ情勢分析ができないのが公安関係だ。左翼も、日共の理論面の動きや、人と人とのつながりがわからなければ、パッとでてきた「伊藤律除名」の情報も、確度がわからない。スパイ事件も同じで、思想的背景があり、政治的謀略さえ考慮しなければならない。 三橋事件がそうだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 ソ連代表部とは総合スパイ組織

赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 The Soviet representative's five organizations, the Political Department (Ministry of Internal Affairs, MVD), the Secretariat (Red Army), the Culture Department (TASS News Agency), the Trade Representative (Ministry of Trade), and the Consular Department (Ministry of Foreign Affairs) each have a spy network.
赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 The Soviet representative’s five organizations, the Political Department (Ministry of Internal Affairs, MVD), the Secretariat (Red Army), the Culture Department (TASS News Agency), the Trade Representative (Ministry of Trade), and the Consular Department (Ministry of Foreign Affairs) each have a spy network.

ここで、ラストヴォロフ氏の活躍中だったころの、元代表部の組織とその諜報網の実状をみよう。この組織がそれぞれにスパイ網を持っており、政治部(内務省)、書記室(赤軍)、文化部(タス通信)、通商代表部(貿易省)、領事部(外務省)の五系統がある。これらのスパイ網の最高責任者は各部首席が担当しているが、主に内務省はラストヴォロフ、貿易省はサザノフ(註ラ氏の失踪目撃者)両氏が担当している。

さらにこのほか代表部自体のものとしてのスパイ線があり、①日共およびシンパ団体、②ソ連居留民(各国籍白系露人、無国籍人、ユダヤ系米国籍人を含む)、③商社(米系、日系など各国系)、④ソ連引揚者(三橋事件などのいわゆる幻兵団)、⑤パブリチェフ代表直轄線の五線である。ラ氏はこの第五番目を担当している直接責任者であり、しかも政治部員としての政治謀略ではヤミ、ニセドルによる経済惑乱と日ソ貿易とを担当していたとみられている。

このうち①の「日共およびシンパ団体」については、前述した津村氏、ロザノフ氏のルートなどでも明らかだが、次のように日共の組織を通じてモスクワ放送のことなどまで、調べていた事実もある。

緊急依賴、M放送について

(一)今度変更された波長で聞えるかどうか。(二)聴取者の階層はどんなものか。(三)階層によって高価、安価と買う機械が違っているはずだが、M放送を聞取る事の出来る最も安い機械は何型何球なのか(各地区毎の差)。(四)放送の内容が判るかどうか。1言葉は使いよいか。2直訳的ではないか、日本人向きの内容か否か。3どういう内容を希望するか。以上について至急報告せられたい。(日共指令文書写)

②の「ソ連居留民」については、文京区駒込上富士前町四四「在日ソ連人居留民団」がその本拠である。ここには居留民団の事務所と娯楽機関の「ソ連人クラブ」とがある。

二十八年十二月九日赤羽の北鮮系アジト平和寮手入れのさい発見された保安隊軍事フィルム事件なども、同寮居住のソ連国籍人コンスタンチン・ザカロフが居留民団のアクチヴであり、その母マリア(父は元代表部通訳の日本人)もクラブ機関紙の編集員だっただけに、当局ではその間の経緯をしきりに追及したほどだった。

③の「商社」については、日ソ貿易商社も利用されているだろうが外国商社の方が面白い。これは〝東京租界〟そのものであるので、②のユダヤ系米国籍人や、ユダヤ人クラブ、さらにソ連系に対抗する白露同盟などとともに、続刊に詳述しよう。

④の「幻兵団」についてはすでに詳述した通りであり、⑤の「パブリチェフ直轄線」とはラ氏の線でもあるが、一言にしていえば内務省と赤軍の線である。

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 赤軍の線はまだ潜在化している

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ

ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。すると、何といっても中心になるのはこの二つの線であるが、ここに注目されなければならないのは、ラ事件をはじめとして幻兵団などでも、現在までに顕在化されたのはいずれも内務省系統の事件ばかりであるということである。

ラ事件捜査当局の某幹部は『われわれが問題とするのはもはや内務省系スパイではない。いまや赤軍第四課系スパイ線の実態究明にある』と、洩らしたといわれているが、まったくその通りであろう。

私がここに収録した幻兵団の実例の幾つかが、いずれも内務省系ばかりである。日本人収容所のうち、赤軍直轄の収容所があったことはすでに述べたが、これらの赤軍労働大隊でスパイ誓約をした引揚者で、当局にチェックされた人名はまだそう多くない。

NYKビルがフェーズⅡで最終的にチェックした人名は一万名といわれている。この中には私のように誓約はしたが、連絡のない半端人足は含まれているかいないかは知り得ないが、連絡のあった者だけとすれば大変な数である。

またラ氏はワシントンに於て米当局に対して、『ソ連代表部が使用していたソ連引揚者のスパイは約二百五十名である』と述べたといわれる。幻兵団や元駐ソ大使館グループ、または高

毛礼氏のように、さらにまた、東京外語大の石山正三氏のように在ソ経歴を持たなくとも、ラ氏にコネクションをつけられたものもいる。

そしてまた、コテリニコフ・ポポフ――高毛礼ラインの手先とみられる、銀座某ビヤホール経営者の白系露人のように、〝地下代表部員〟の間接的スパイもいる。

従ってソ連スパイ網に躍る人物は、本人が意識するとしないとに拘らず(例えば前記石山教授などは、志位元少佐がソ連兵学の研究のため、赤軍参謀本部関係の第二次大戦資料などを、ラ氏を通じて得ていたように、ソ連文献入手のため知らずにラ氏に利用されていたにすぎないといわれている)相当な数と種類とに上っていることは事実である。

だが、赤軍の線は捜査の手がそこまで伸びているのにまだ潜在化している。前記ビヤホールの白系露人などは、数年前から要注意人物としてマークされていながら、どの系統なのか全く分らず捜査が一頓坐していたもので、今度の高毛礼ケースから明らかになったものであった。

当局ではいまさらのように巧妙なその組織に驚いており、過去九年間における延数百名にも及ぶ在日ソ連代表部員の都内行動記録を再検討している。これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.166-167 日ソ国交回復国民会議の陰にシベリヤ・オルグ土井祐信

赤い広場ー霞ヶ関 p.166-167 It was a Siberian-Organizer Masanobu Doi, who was in Khabarovsk camp, who pulled out "The monster" Fusanosuke Kuhara.
赤い広場ー霞ヶ関 p.166-167 It was a Siberian-Organizer Masanobu Doi, who was in Khabarovsk camp, who pulled out “The monster” Fusanosuke Kuhara.

日ソ国交回復国民会議(事務総長馬島僴氏)では、きよう十一日午前十一時から神田一ツ橋如水会館で最高役員会を開き、

一、現在空席の会長に久原房之助氏を推す。

一、日ソ国交回復について今後の進むべき方策の情勢分折。

などを検討する。現在のソ連との国交を戦争状態のままにしておくことは最早許されない。従ってソ連に対して戦争状態終結宣言をなさしめる積極策を政府筋に勧告するものとみられている。同会が会長に久原房之助氏を推すのは『総選挙前でも日ソ国交のための全権委員を派遣したい』との鳩山首相発言ともからんで、同会ではこの全権委員に久原氏を委嘱することを強く希望するものとみられる。

なお十一日の同会最高役員会に出席を予定されている顔触れはつぎの通り。

風見章、村田省蔵、平塚常次郎、北村徳太郎、加納久朗、伊藤今朝市、北玲吉、海野晋吉、中島健蔵、山本熊一、平野義太郎、馬島僴の諸氏のほか、貿易、水産業界等の各経済界代表、労働団体代表も出席する。(東京日日新聞)

同会議の準備委当時の出発から、つねに中心になってきたのは、二十七年一月二十九日の日ソ経済会談を準備した風見章氏である。馬島僴氏はあくまで表面的な人物で、鳩山・ドムニッキー会談で浮んできたとき、治安当局が行った同氏の身許調査によれば、戦時中は、大陸で軍と関係のあるらしい麻薬関係の仕事をしていたが、戦後はソ連代表部の嘱託医をしており、情報の程度の話だが、独身者の多かった代表部員たちの、そのため相手方に起る各種の〝悩み〟を解決してやって、非常に親密になったといわれている。

そのような意味で、ラストヴォロフ氏なども世話になったかも知れず、同様に代表部員たちが出入りする麻布六本木のインターナショナル・クリニックの白系露人某氏(特に名を秘す)とともに、事件当時当局の興味の対象となっていたことがある。

同会議についての最大の関心は、やはり久原房之助氏の登場である。どうしてこの〝怪物〟がでてきたかということは、当局の得た情報によれば、その引出し工作を担当した一人の男がいるということである。この全く新聞紙上にも〝名前の出ない男〟は誰か?

そして私はここにもまたシベリヤ・オルグの一人、土井祐信氏を見出すのである。同氏こそその〝名前の出ない男〟である。

しかし同氏の名前は、「日中日ソ国交回復ニュース」(千代田区九段三ノ七、同会議発行)の名儀人として表面には出ている。彼はハバロフスク収容所で第十六地区ビューローの幹部であり、二十四年十一月二十七日舞鶴入港の高砂丸で引揚げてきた元軍曹である。

このように次々とシベリヤ・オルグが登場してくるからには、日ソ親善協会の中にある「ソ連帰還者友の会」も見究めねばならないであろう。

〝ナホトカ天皇〟津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国して組織した「ソ連帰還者生活擁護同盟」(ソ帰同)が、「日本帰還者同盟」(日帰同)と変り、二十四年十一月、日本新聞グル

ープが帰国するにおよび、二十五年はじめに組織の改正が行われ、同年春の徳田要請問題にからんで、津村氏らの一派が粛清されたことはすでに述べた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.214-215 スパイは奇異なものではない

赤い広場ー霞ヶ関 p.214-215 What works behind the negotiations between Japan and the Soviet Union---is it Siberian Organizer, Freemasonry, or the Cannon Unit of CIA, or even the British Secret Intelligence Service?
赤い広場ー霞ヶ関 p.214-215 What works behind the negotiations between Japan and the Soviet Union—is it Siberian Organizer, Freemasonry, or the Cannon Unit of CIA, or even the British Secret Intelligence Service?

〝奇怪な三人〟を調べたときの、アナリストの忠告と、地下の高級レストランで別れた〝ナ

ゾの女性〟の表情とを想い浮べて、私ももうここらで筆を擱かねばならない。

日ソ交渉のかげに蠢くもの——それは果して、かいらいを操るシベリヤ・オルグか、フリー・メーソンか、或はまた、元キャノン機関シャタック氏を先頭とする米CIAか、或はさらにまた、レッドマン氏に代表される英国秘密機関か?

いまや、われわれの首都東京は、諜報と謀略の渦巻く、トオキョオ租界と化してしまった。

スパイ事件が起ると、世の知識人たちは必らず『日本にスパイされるような、機密があるのかい?』と、皮肉まじりにいわれる。そしてまた、各主管大臣たちは、国会で『秘密はありません』と、答弁する。

確かに、現在の日本には、法律に定めた国家機密はない。MSA兵器の秘密保護法、駐留軍秘密の刑事特別法の両法が、指定する秘密は要するに、アメリカの秘密であって、日本の秘密ではない。

では、一体ラストヴォロフ氏は、日本から何をスパイしていたか? 個人的にいえば、日暮氏を通じては、欧米局ロシヤ課に集まる、各地の大、公使館からのソ連情報、駐在国のソ連観や、大、公使などの情勢報告書、および本省のそれに対する見解などがある。また、内調に集る元国警や、検察庁、警視庁、防衛庁など治安機関をはじめ、労働省、運輸省、文部省など、一般行政官庁からの国策決定の各種治安情報文書をみることができたので、それらだろうという。

庄司氏は、駐留軍のキャンプ設置場所、宿舍の設備など、駐留軍との外交接衝やら、米軍と防衛庁との連絡事項が担当だったので、同様それらがラ氏の役に立ったとみられる。

これでも分る通り、また私が第一集「迎えにきたジープ」から、全篇を通して主張してきた通り、スパイとは決して奇異なものではないということ。つまり、大使館に忍びこんで、金庫から機密書類を盗む、といったような、大時代的なものではない。

どんな片々たる、頭も尻尾もない話でも、それが、組織的に処理される限り、重大な事実を示す〝情報〟であり、この情報を、意識的、系統的、に集めることが「諜報」であるということである。

謀略もまた、鉄橋をダイナマイトで破壊したりすることばかりではない。また、そんなのは

下の下たるものであるが、やはり、謀略というと、大時代的な感覚しかなくて、軽べつ感が先に立つ。

しかし、ラ氏の亡命とか、シベリヤ・オルグの活躍とか、久原翁の引出しとか、すべてこのように、ある目的をもって、所期の事実を、自然に作り出すのが「謀略」である。

赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 情報と謀略なく国は存立できず

赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 "There is no diplomacy without information," said a Foreign Ministry bureaucracy. However, the times have already come to a point where "a nation cannot exist without information and plot".
赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 ”There is no diplomacy without information,” said a Foreign Ministry bureaucracy. However, the times have already come to a point where “a nation cannot exist without information and plot”.

謀略もまた、鉄橋をダイナマイトで破壊したりすることばかりではない。また、そんなのは

下の下たるものであるが、やはり、謀略というと、大時代的な感覚しかなくて、軽べつ感が先に立つ。

しかし、ラ氏の亡命とか、シベリヤ・オルグの活躍とか、久原翁の引出しとか、すべてこのように、ある目的をもって、所期の事実を、自然に作り出すのが「謀略」である。

『情報なき外交はあり得ず』と、外務官僚は大見得を切るが、時代はすでに『情報と謀略なくしては、一国の存立はあり得ない』ところにきているのである。

今まで述べた米、英、ソ三国の情報機関の仕事をみてみれば、それは充分うなずけよう。

七月八日付の各紙によれば、政府は、内閣調査室に〝特高的〟調査は行わしめないようにしたという。当局者はいたずらに〝特高〟という言葉の、ニュアンスのみにとらわれて、迎合的であってはならない。

また、七月十日付読売夕刊の、マーク・ゲインのワシントン日記、「原子力時代のスパイ戦」にも、主役は科学者になると述べられている。事実〝静かなヴォルガの流れ〟とでもいう、一枚の観光写真さえあれば、この写真を立体化して、はるかの対岸にうつる工場の屋根だけからその工場の規模、内容、能力までが計算され得る時代である。

為政者は諜報と謀略という、古い言葉のみてくれだけにかかずらわって、今、なすべきこと

を見失ってはならないと信ずる。

ラ氏と志位氏の最初のレポは、東京は目黒の碑文谷警察署の裏手の住宅街の路上であった。少し早目にきて、佇んでいた志位氏は、パトロールの警官に職務質問を受けた。

ハッとして狼狽しかけたところへ、運良くラ氏が近づいてきた。早くも情勢を察知したラ氏は早口の英語でパトロールの警官を叱りつけたのである。英語を話すのはアメリカ人で、アメリカ人は味方である、という単純な考え方をした警官は、志位氏に『失礼しました』と謝って去っていってしまった。

同様に三橋事件のさい、ソ連スパイなら共産党員と思った国警都本部が、別人の三橋氏を追っていたこともある。

もし、碑文谷署のパトロール警官が、もっと自己の職務に忠実であり、自信を持っていたらラ氏と志位氏は、眼と鼻の同署に同行され、ラ事件は別の形で発展したかも知れなかったのである。

あらゆる国際犯罪の根が、暗黒都市「香港」にあることから、以前の国警では、香港に駐在官をおいて、情報入手の便宜を図り、国内の犯罪検挙の能率をあげようとした。ところが、何回申請しても、香港政庁はヴィザを出さない。