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赤い広場―霞ヶ関 p024-025 ソ連代表部の2人はクリコフ船長たちの釈放を要求

赤い広場ー霞ヶ関 24-25ページ ルーノフとサベリヨフ、2人の元ソ連代表部員は北海道各地を駆け巡りクリコフ船長ほか3名の船員の釈放を要求。
赤い広場ー霞ヶ関 p.024-025 Rounov, Saveljov, Soviet representatives demand release of Krikov captain and three sailors.

2 八月二十一日欧米第五課に、一両日中に前記二名が旭川に行くからと連絡があった。

3 八月二十三日午後七時東京駅発列車にて、参事官兼政治顧問代理ルーノフ、領事部書記サベリヨフの両名が北海道へ出発した。

4 八月二十五日午前十時四十分旭川駅へ到着した。両名は直ちに北海ホテルに入り、午後一時四十分まで休憩した後、旭川方面隊を訪れ、隊長に面会、午後二時十分頃まで会談し次の申入れを行った。

a 樺太と北海道は近接しているので、色々の問題が起ると思うがお互に円満に解決して行きたい。

b 拘留中のソ連船員四名に面会させてほしい。

c 四名を出来るだけ早く釈放してほしい。

これに対し隊長から『旣に事件は検察庁に送致してあるので、詳細は検察庁で聞いて貰いたい』と回答した。

5 そこで両名は引続き、旭川地方検察庁を訪れ、午後二時二十分より同五時三十分の間検事正と面会。国警とほぼ同様の申入れを行ったが、交渉に先だち『ソ連代表部員として公式の立場で交渉したい』と申出た。これに対し検事正は、『公式の立場の交渉は検察庁の管轄外であるから、外務省へ行ってもらいたい』と拒否したので、結局個人の立場で交渉した。

ソ連側の申入事項は

a 四人のソ連人に面会させてほしい。

b 果物等の差入れをしたい。

c ソ連船に弾痕があるというニュース映画を見たが、賠償を要求したい。

d 小樽へ行ってだ捕された船を見たい。

これに対し検事正は

a 逮捕は国内法に基き合法的に行われたものである。

b 拘留は三十日迄あるので釈放の時期は分らない。

c 四人に対する面接は、裁判所から禁止命令が出ているので応じられない。

d 差入については便宜を図る。

e 弾痕の問題については、海上保安庁の管轄であるから回答できない。

f 船は外から見る分は羡支えないだろうが、大事な証拠品だから中に入ることは出来ない。

と回答した。

これに対してルーノフ氏から『ニュース映画にも内部まで出してあるのに何故見せられないか。ニュースで見ると、弾のあたった痕が出ているが、小樽へ回航したのは弾痕の修理をするためじゃないか』との追求があったが、これに対し検事正は『自分達は法規を守るのが任務だから、法規を曲げることは出来ない』と回答した。

この回答に対し、『私達の印象を悪くしないようにした方がいいだろう。この事件が表面化した場 合、あなたの責任に影響するだろう』

赤い広場―霞ヶ関 p026-027 ソ連側は多くを要求。日本側はほとんどを拒否。

赤い広場ー霞ヶ関 26-27ページ ソ連側は執拗に多くの要求を出したが、日本側はほとんどすべてを拒否。
赤い広場ー霞ヶ関 p.026-027 The Soviet side persistently demands a lot of things. Japan refuses almost.

『私達の印象を悪くしないようにした方がいいだろう。この事件が表面化した場

合、あなたの責任に影響するだろう』と脅迫がましい言動をなし、更に『三十日迄の間に釈放される場合は、北海ホテルに通知してほしい』と言い残して立去った。

 6 ついで午後五時四十五分頃旭川刑務所を訪れ、所長に面会を求め午後六時十五分頃より会見し、aソ連人四名の健康状態 b房内の生活状態を聞き、差入れの打合せをして北海ホテルに引上げた。

 7 八月二十六日午前中旭川刑務所を訪れ、果物の差入をして引上げた。

 8 八月二十七日午前七時四十分旭川発の列車で小樽へ、午前十一時四十分頃到着、北海ホテルで午後一時頃まで休憩し、海上保安本部を訪れ『ソ連船を見たい』と申入れた。これに対し海上保安本部では『事件がまだ確定していないので見せられない』と拒否したところ、付近のハシケを雇ってソ連船の周囲三百米位を一周して、午後四時頃ホテルに引上げた。

 9 八月二十八日午前九時四十分頃、岩田町漁業協同組合幹事木森幸雄氏がホテルを訪問、ルーノフ氏等に面接し、自己所有漁船がソ連に拿捕された模様なので、その早急送還方を要請した。

 10 同日午後小樽郵便局より東京USSR代表部宛英文にて『船を視察した、三十日にもう一度事件解決のため調査をやってみる、今日旭川へかえる』旨打電し、午後五時小樽駅発にて旭川へ午後九時帰着した。尙同日代表部パブリチエフ氏よりルーノフ氏宛、『取調べが終りましたか、船長との会見を要求しなさい』との内容の電報を受取っている。

 11 八月二十九日午前十時頃旭川地検へ赴き、検事正に面会を求めたが、忙しいからと面会を拒否したところ、約二十分位待っていたがそのまま引揚げた。

12 八月三十一日午前十時、旭川地検に検事正を訪ね『拘留中の船長に面会させて貫いたい』と申入れたが、検事正は『起訴後であるから裁判所に行ってもらいたい』と拒否したが、執拗に要求、約一時間ねばって結局目的を達せず引揚げた。引続き午前十一時十五分頃地方裁判所に所長を訪ね、同様の交渉を行ったが、担当の山田判事が不在であるからと拒否したら、ここでも約二十分ねばって立ち去った。

13 八月三十一日午後三時十五分、旭川発列車で札幌に午後七時到着、グランドホテルに宿泊。

14 八月三十一日午前十一時頃、チヤソフニコフ氏外一名が欧米局長室に来て、同別室の女給仕に書面と名刺を渡して立去った。書面はパブリチエフ氏より欧米局長宛のもので、内容は『前回、逮捕ソ連人四名の釈放要請をしたが、何故この回答が与えられないか』との文面である。

15 九月一日午前九時四十五分、ルーノフ氏等二名は札幌入管事務所に至り、収容中のソ連人三名に面会させてほしい旨申入れたが、拒否されて約三十分位で立去り、午前十一時五十分一旦ホテルに帰り、午後四時四十五分豊平駅より定山溪ホテルに宿泊した。

16 九月四日午前九時三十分頃、札幌入管事務所を訪れ所長に面会し、aソ連代表部員として来た b三人のソ連船員に会わしてもらいたい c仮放免はどうなっているか d送還については如何なる方法をとるか等の申入れを行ったが、これに対し所長より、aソ連代表部員ならばお会いする必要はない

赤い広場ー霞ヶ関 p028-029 時系列を追えば謎はさらに深まる。

赤い広場ー霞ヶ関 28-29ページ 時系列を追えば謎はさらに深まる。
赤い広場ー霞ヶ関 p.028-029 Pursuing events in chronological order deepens the mystery further.

これに対し所長より、aソ連代表部員ならばお会いする必要はな

い b審査の過程であるので会わせる訳にはいかない c仮放免には一定の条件があり、ソ連等の国籍如何を問わず許可した前例がない d送還については中央の決定によるが、現地でも期待に添うよう努力する、と回答、約二時間会談の上午前十一時三十分頃引揚げ、途中果物等を差入れ、ホテルに帰った。

⒘同日午後六時五分札幌発列車で旭川に向い、午後八時五十分到着、ニュー北海ホテルに投宿した。尙、出発に当り、『抑留者三名には入管係員が面会させなかった。これら三名の抑留者は九月中旬頃強制送還されるらしい』との内容の電報を代表部宛打電したが、九月五日旭川に『帰京を延期するように』との内容(不明確)の返電があった模様である。

⒙九月五日午前十時旭川地裁を訪問、所長に面会を求めたが拒否され、そのまま引揚げた。

⒚九月八日午前零時五十五分旭川発下り列車で、自称、札幌市北九条西三丁目事務員本間裕枝(当 30 才)がニュー北海ホテル十六号室に宿泊し、午前八時四十五分頃ソ連元代表部員の部屋を訪問し、紙片を手交後、ロシヤ語にて約十五分位会話して引揚げた。尙同日午後一時四十五分旭川発列車で札幌へ向ったが、前記本間裕枝も同列車に乗革した。午後五時札幌駅に下車してからルーノフ氏等と自動車に乗車したが、途中で尾行を感付いて本間は下車し、北大教授杉之原舜一方を訪問した。

発生順に事件を追ってみると、次の通りになる。

五月二十五日 ソ連兵の死亡? 行方不明?

六月七日 ソ連兵の死体発見さる。

七月中旬 代表部死体捜索を始める。

七月二十日 コテリニコフ、ジュージャ両氏稚内に現る。

七月下旬 両氏帰国準備を始める。

八月二日 関三次郎密入国して、捕わる。

八月九日 ソ連船拿捕さる。

八 月十二日 コテリニコフ、ジュージャ両氏帰国す。

八月十九日 代表部四船員の釈放要求。

八月十九日 ヤンコフスキー氏札幌へ行く。

八月二十一日 ヤンコフスキー氏帰京。

八月二十二日 ルーノフ、サベリヨフ両氏旭川へ向う。

八月二十五日 両氏旭川へ現る。

以上の通りであるが、これでも分る通り、ソ連の一沿岸警備兵が死んだか、逃げたか、ともかく姿を消してから、代表部がその捜索を始めるまでに、約二ヶ月も経過しているのだ。云い直せば、二ヶ月も放置しておいたのちに、突然騷ぎ出したということだ。

赤い広場―霞ヶ関 p032-033 執行猶予のクリコフの再収容を要請。

赤い広場―霞ヶ関 p.32-33 執行猶予のクリコフの再収容を要請。
赤い広場ー霞ヶ関 p.032-033 Requests a re-imprisonment of Krikov on probation.

三名の船員は起訴猶予で強制退去となった。

九月八日関の初公判、同二十二日クリコフの初公判と、いずれも旭川地裁でスピード裁判が開かれた。一方強制送還の三名は十月二日小樽出港の石炭積取船で、北樺太西柵円に送還、同五日ソ連側官憲に無事引渡された。

また十月十四、十五の両日にわたり、裁判権の有無についての公判準備手続が東京地裁で開かれ、四対一で裁判権が支持された。

関、クリコフの裁判は第二回から並行審理されていたが、二十八年二月十九日、両名とも懲役一年(執行猶予二年)、クリコフには船を返すとの判決があった。

ところが、判決から四日目の二十三日、クリコフ船長の杉之原弁護人が、札幌入管事務所を訪れ『船長を再収容してほしい、送還は広島、山口両県で修理中のソ連船でしてほしい』という申入れを行った。

再収容とはどうしてだろうか。この問に答えて元ソ連代表部では、三月四日次のような声明を発表した。

ソヴエト船のクリコフ船長は、二月二十三日代表部をおとずれ、アメリカ諜報部員と思われる二名のアメリカ人に数日間つきまとわれ、故国に帰るのを拒否して、アメリカへ行くようおどかされたと

のべた。クリコフ船長はアメリカ諜報部員の追求から守ってほしいと依頼した。彼はつぎのような声明を発表した。

本年二月十七日午後十一時、私が旭川市の「ニュー北海」ホテルの自室にいると、見知らぬ男が入ってきた。この男はあとでわかったのだが、アルバート・バーミンという名でホテルに投宿していたものだった。アルバート・バーミンの言によると、彼の両親はカリフオルニアに住んでおり、母は女教師で、彼は米軍の通訳をしているとのことだった。彼はうちとけた振舞をして、なるベく私を酔わせようとした。二月十八日の昼間は、このアメリカ人がつきっきりで私につきまとい、御馳走をして私の気嫌をとろうとした。この日の夕方、彼は「ニュー北海」ホテルの自室に私を招待したが、そこにはもう一人のアメリカ人がいた。宿帳にのっている彼の名前は、エドワード・マーチンであった。彼らはアメリカ当局に亡命を願いでて、直ちに飛行機でカリフォルニアへ行こうともちかけて来た。そのとき彼らはこういった。『日本人などくそくらえですよ。奴らはアジア人ですからね……中請書を書きさえすれば、私たちの手から五万ドル貰ってアメリカへ飛んで行けますよ』

二月十九日、バーミンはまたアメリカへ行こうと私にすすめた。彼は私を自室につれこんで、直ぐに鍵をかけ、予め用意した、ロシヤ語の不帰国申請書に署名させようとした。私はそれを断って、彼の強要をきっばりはねつけたあと、バーミンは図々しくなり、私の部屋に無断でちん入し、中請書に署名させようとして私につきまとうようになった……