最後の事件記者 p.054-055 三浦逸雄先生によりジャーナリズム開眼

最後の事件記者 p.054-055 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。
最後の事件記者 p.054-055 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。

深更、勝利の美酒に酔い痴れて、旅館に帰ってきたはいいが、どういうものか寝つかれない。

私が反転すれば、山崎も寝返りを打つという有様で、雨戸のスキ間から朝日がさしこみはじめて、ようやくウトウトとした。

女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、文科は口試、理科は体検と別で、翌日はその逆だ。寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。曲りなりにも試験だけは受けさせてもらったが、結果はもちろんダメ。山崎も、カフェー「ルル」のせいか、卒業まで裏表六年かかるという始末だった。

「畜生メ、見ていろ」

浪人生活に入った私は、もう完全に演劇青年だった。やはり、五中の先輩のいた劇団東童で実践活動に入ってしまった。母親はこのグレた末息子に手を焼いて、徴兵の年がくると、「どうか、学校だけはいっておくれ、お父さんに顔向けできないよ」と哀願した。

父亡きあとの長兄は、二高、京大理学部、東大大学院というコースの、徹底した官学主義者であった。「男は東大か京大、女はお茶の水にあらざれば人にあらず」といったコリ固りだった。だから、もちろん私の私大入学など認めようとしない。

徴兵逃れに、私は母の頼みで上智大学に入ったが、ドイツ語をサボったので二年に進級できない。私は演劇青年だから、落第したのを機会に、日大芸術科へ入学するといったけれども、長兄が「学資を出さない」と、日大入学を認めてくれない。

それを聞いた次兄が乗り出してきた。次兄は早大理工の、これまた徹底したアンチ官学派であった。「ヨシ、学費はオレが心配してやるから、その代り小遣いは自分でやれ」といって、私の日大入学を支持してくれた。

私は日大の芸術科に入ったが、その時、どんなつもりだったのか、演劇科や映画科をえらばずに、新設の宣伝芸術科というのを、専攻に選んでしまった。その理由は今では覚えていないが、時局はいよいよ急迫しており、国家宣伝という、与論形成のプロデューサーともいうべき、この科に何となく興味を覚えたものらしい。

私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。

『ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!』

私はそう決心した。しかし私は昔の苦学生で、今でいうアルバイト学生だった。次兄との約束 もあり、銀座の喫茶店のボーイ兼バーテン兼マネージャーをしたり、コンサート・マネージャーをしてみたりして、小遣銭、というより遊ぶ金を稼いだのだった。