読売梁山泊の記者たち p.066-067 徳間の大活躍が始まった

読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。
読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、

ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

買収工作の運動員たちが、次々と逮捕され会計責任者にまで及んだ。県警は、竹田社長の事情聴取から逮捕、つづいて候補者という構想でいた。ここで、徳間の大活躍が始まったのである。

もう、故人となったが、公卿華族の出で、警察に滅法カオの利く、芝山元子爵を徳間が担ぎ出す。学習院で、竹田社長の同期生だ。芝山は、県警本部長を訪ねて、「かりにも元皇族だ。そんな方を警察に引っ張るのか」とハッパをかけた。

小宮山派の違反は、そこで終わった。新聞雑誌に叩かれるばかりだった英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

徳間も、新聞記者であった。しかし、彼が定年まで読売にいたら、これだけの力は持ち得なかったろう。やはり、商売の世界に入っていったからである。

新聞記者は、事実、カオが広い。だが、所詮はサラリーマンだから、商売には弱い。最後のツメが甘いのである。

正論新聞で、オートボールペンの倒産を取り上げたことがある。すると、警視庁クラブ時代の旧友、朝日紙の万代(ばんだい)記者が、訪ねてきた。ナントカ企画といったような名刺だったが、結局、二人で酒を呑んで、彼は不得要領な話をして、帰っていった。

同じように、朝日紙の央(なかば)忠邦という、創価学会記者がいた。彼が、もう一人読売だかの

記者と組んで、昭和六十一年七月の同日選で、奄美群島区の徳田虎雄候補の参謀を勤めたらしい。

二度目の挑戦だし、下馬評では徳田が保岡に勝つ、それも、公明票を押さえたからだといわれていた。そのあたりも、央が働いたらしい。

ところが、投票直前、保岡は二階堂に頼み、二階堂は竹入に頼んで、徳田に傾いていた公明票を、ひっくり返してしまった。票差は、わずか三千三百。徳田は敗れた。徳田の勝利を祝うため、鹿児島まできていた央らは、電話で、「ツメが甘いんだ!」と怒鳴られ、奄美大島へは渡れなかった。

いま、私も、ある程度の人生を生きてきてしみじみと思うことは、仕事も健康も、努力のあとは、運賦天賦。だれにも〈運命の一瞬〉を、どうつかむかの違いであろう。

激戦地へ行く奴もいれば、後方で、ノンビリする奴もいる。新宿のローカル紙「ニュー・シティ・タイムズ」を見ていたら、新宿の戸塚安全協会長になった、石油屋の大家萬次郎が、「ひと」欄に出ていた。

彼とは、北支・保定の予備士官学校の同期生。ところが、卒業の時に見当たらない。のちに聞けば、一族に将軍がいて、豊橋に転校して、卒業後は、京都連隊区付の見習士官。祇園の芸奴置屋に営外居住して、舞妓たちに竹槍の銃剣術を教えて、戦争が終わった、という奴である。

だが、私にだって、運はツイていた。新京特別市で終戦となり、在留邦人婦女子の保護をしながら、居抜きの家をまわっていて、日用日露会話という、ポケットブックを拾ったものである。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。