読売梁山泊の記者たち p.144-145 終身暗いカゲがつきまとう

読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。
読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが…

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立

ち上がった。少尉がいった。

「三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉ということを、忘れぬように…」

ペールヴォエ・ザダーニェ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は、当然、ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた、つぎの命令……と、私には、終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体ある限り、その肩を後からガシッとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーが何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは十分すぎるほどに、判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められれば、の話

だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には、妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは、当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果たして当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装を解いた軍隊を、捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを、いまさら、いってもはじまらない。現実のオレは、命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラック(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。