読売梁山泊の記者たち p.146-147 このナゾこそ例の誓約書

読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。
読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くのほうで、深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪は

やんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイのバクロをやってのけられるのだろうか。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は、約束のレポの三月八日を前にして、突然、収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校のだれかれにたずねてみたが、返事は異口同音の、「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では、他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンと、バラックの二重扉の開く音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ、胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起こり、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明けはじめたのであった。三月八日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終わった。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現われなかった。

私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口(ぐち)だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカ

でダメ押しのレポも現われないまま、懐かしの祖国へ帰ることができたのであった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔。復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿。肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者。そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。

私は、このナゾこそ、例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように、〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮かび上がってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会でKという引揚者が、ソ連のスパイ組織の証言を行なった。その男は「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて、「日本新聞」の編集長まで、ノシ上がった男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

「チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう」

「何をいってるんだ。今まで程度のデータで何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか」