読売梁山泊の記者たち p.152-153 「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝

読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。
読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

日本の軍隊の体験があれば、「大尉」などという階級は、陸軍士官学校出身の職業軍人で大隊長。予

備士官(幹部候補生)出身なら中隊長か、大隊付大尉といった程度の、〝消耗品〟であることが、理解できる。とても、〝走狗〟にもならない、走狗についているダニ程度なのである。

日本帝国主義の走狗といえるのは、中佐参謀——いうなれば、瀬島竜三中佐クラスであろう。ラストボロフ中佐に、萬葉集の合言葉をささやかれた、志位正二(モスクワ上空の日航機内で急死)も、少佐参謀であった。現日本共産党志位書記長の伯父である。

私たちは、バイカル湖の西岸、イルクーツクの北にある、炭鉱町のチェレムホーボから予備役将校ばかりの梯団で、昭和二十二年十月、引揚船の待つナホトカに着いたばかりであった。

捕虜生活も二年目に入って、従来の建制、旧軍隊組織のままの作業隊から、将校ばかりの作業隊に組み替えられ、大いに作業成績をあげていた。それまで「日本新聞」(コワレンコ社長)が宣伝していた、「将校は、日本へ帰さない」から、「作業成績が良いものから帰国させる」の見本として、ダモイ(帰国)させるのだ、と聞かされていた。

だが、ナホトカに着いてみると、私たちのすこし前に、第一回の将校梯団が帰国したという。この、人民裁判にかけられている大尉は、その第一回梯団から、残されたひとりだったらしい。

そして、後続の私たちに、その光景を目撃させることは、あのスパイ誓約書にある「日本に帰ってからも…」の条項に、金縛りをかける効果は、十分すぎるほどであった。

明日の乗船を控えて、私は、スパイ下命者である、ペトロフ少佐が突然いなくなって、第一の課題であった、「収容所内の反ソ反動分子の名簿作成」が、流れてしまった幸運をよろこんでいた。

もしも、私が名簿を提出していたら、その名前の同胞は、永遠にダモイできなかったかも知れない。あの大尉も、襟章をつけ、長靴をはいていたところをみると、欧露エラブカの、日独同居の将校ばかりの収容所にいたのかも知れない。

エラブカ収容所における独軍将校は、毅然として、ジュネーブ条約による待遇を要求し、もちろん労働を拒否し、バターの定量を監視するほどの余裕を持っていたそうだ。

それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。

「私の名前を出さない、という約束をして下さいね」

その男は、念を押してから、とうとう誓約にいたるまでの経過や、マーシャと呼ぶ女士官の〝また、東京で逢いましょう〟という、耳もとでの熱いささやきまで語った。彼は東京での話になると、日比谷の交差点で、そのマーシャそっくりの女性を見つけて、ハッと心臓の凍る思いをしたといった。私は彼が、本物のマーシャとレポしたに違いないと、にらんでいた。

「どうしても、名前が判ったらマズイんですね。思い切って、すべてを発表したらどうです。マーシャのレポや合言葉も……」

彼は黙っていた。やがて、ポツンと、一言だけいった。