読売梁山泊の記者たち p.154-155 所轄の北沢署に保護を頼んだ

読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。
読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。

「殺されるかもしれないから」

彼の表情は、まったく真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私は見た。

「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。

ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から玄関を見通す階段へ一歩踏み出したところ、アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。

玄関のドアにはまったガラス。その上のラン間のガラスに、一条の懐中電灯の光が走っていたのだ。

その光は、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には玄関を去ってゆく足音さえ聞こえない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻はその後、その時のことを想い出しては、「あれほど恐ろしかったことは、まずちょっとなかったわね」と、よくいった。

あの懐中電灯の光の主が、保護を頼んだ警官なのか、あるいは、何かの配達か。また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

幻兵団の記事に対する意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCIC(米軍防諜部隊)が、私と私の記事とを疑ったのである。

「私の名前のコーサクは、耕す作ると書くのですから、多分、百姓の出身ですネ」

担当官の二世のタナカ中尉は、私の気持ちをほぐそうとするかのように、そういって笑った。私も、いっしょになって笑った。

しかし、調べは厳しかった。

「ナゼ、あの記事を書きましたか。ソ連のスパイ組織をバクロして、恐いと思わないのですか。死への恐怖を感じないのですか」

「軍隊と捕虜とで、どうせ一度は死んだものと思えば、『死』なんて、コワクはありませんよ。ことに、新聞記者が、自分の書いた大きな記事のために殺されたとすれば、それは日本語で、本懐というものじゃありませんか。私に悔いはありませんよ」

「?…。仕事のために死ぬ? コワクない、本懐だ?…信じられない…記者の功名心?」

タナカ中尉には、この「死生観」が、どうしても信じられないようであった。

じつは、彼の思考はもうひとひねりしたものだった。スパイ組織のバクロという、コワイ記事を書いて、平気でいられるのは、その記事のリアクションがないという保証があるからではないか?

保証があるということは、つまり、この男は、反ソ的な記事を書くことによって、米軍側に取り入り、ソ連のためのスパイを、効果的にしよう、としているのではないか?