読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長に〝御進講〟

読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長、通称ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフの、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。
読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長、通称ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフの、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。

しかし、私の「幻兵団」の取材には、多大の貢献をしてくれた。ある時には、警察庁や警視庁の、外事・公安などの動きについてもサジェッションを与えてくれた。

なにしろ、私が、警視庁七社会で、外事を担当していた時の、山本鎮彦公安三課長(外事特高とも呼ばれた)、通称ヤマチンは、のちに、警察庁長官へと進み、さらに、ベルギー駐在の大使にも、転出できた人物。そのヤマチンに、アナリストとして〝御進講〟申し上げることも、しばしばだった今村なのである。

ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフ二等書記官(政治部中佐)の、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。

だが、今村が、私にレクチュアしてくれた「諜報学入門」は、なかなか、示唆に富んだものであった。

鹿地亘を鵠沼海岸で襲った怪自動車は、間違いなく、アメリカのキャノン機関の仕事であった。これほど強引で、デタラメな、ギャング振りを発揮できるのは、キャノン機関以外にはない。

キャノン機関の所属するCIAの前身は、戦時中、重慶にあったOSSである。この第二次大戦中の、各国の秘密機関は、それぞれに特色を持っていた。OSSの得意とするのは、謀略と逆スパイ工作である、といわれている。

逆スパイと、スパイの逆用とは、まったく違うことである。常識的に使われる、二重スパイという

言葉も、厳密にいうと、まちがっている。三橋正雄が二重スパイ、というのが誤りで、彼は、幻兵団(ソ連のスパイ)だったのが、逆用されて、アメリカのスパイになったのである。

二重スパイというのは、二つの陣営に、まったく同じ比重で、接触しているものをいうのだが、第一次大戦以後の、各国の秘密機関は、諜報、防諜両面で、飛躍的進歩を遂げたため、スパイというのは、その末端で、必ず敵側と接触を持っていなければならなくなった。

つまり、大時代的な個人プレイだけでは、なにもスパイできなくなり、組織の力が大きくなったのである。深夜、敵側の大使館に忍びこんで、金庫を開けて、書類を盗む、といったスパイのイメージは、もはや、完全に幻と化してしまった。

そのため、各国の諜報線は、必ずどこかでクロスしており、七割与えて十割奪う、という形態をとるようになってきた。いいかえれば、すべてがいわゆる、二重スパイなのである。今村が、黒河の工作家屋でやっていた、インベスチゲーションをインタルゲーションが使う、というあの形である。

ただ、二重スパイといわれても、その力関係が、どちらの陣営に大きいか、どちらの陣営に、より多く奉仕しているか、ということで、そのスパイは、「比重の大なる陣営のスパイ」と、いわれるのである。

だから、三橋正雄の場合は、アメリカのスパイであり(逆用された)、鹿地亘もまた、アメリカのスパイである。

正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイ、のことである。複スパイとは、ス パイを監察するスパイだ。逆スパイと、スパイの逆用との違いは、その取扱法の上で、ハッキリと現われてくる。