読売梁山泊の記者たち p.188-189 「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?
読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?

上海の妓楼で働いていた彼女の、清純な美しさに魅せられた日本の特務機関の中佐が、すっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだ、というのがそのひとつである。
ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に、眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従

事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか、恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明けずに、姿を隠してしまった。

狂気のように、中尉を求めたパイコワンがたずねたずねて、上海の機関本部へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸(売国奴の意)として、中国を追われた彼女は、日本へ入国するために、米人と結婚し、中尉を求めてきたのだ、と。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた、日本へ移り住んだ、ともいう。

私に、その物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終わるのを待っていた。

「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」

そう呟いたきり、否定も肯定も、しなかった。だが、何か隠し切れない感情が、動いているのを、私は見逃さなかった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心

のカゲがのぞいたのか?

中国に、中国人として生まれて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり日本の恋人の、面影を求めて、新しい植民都市・東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと、疑っている官憲が、その挙動を見つめている。

何かこみ上げてくるいじらしさに、私は、新聞記者という立場も忘れて、抱きしめてやりたいような感じのまま、しばらくの間、この美しい異邦人を、見つめていたのだった。

このマンダリンの主役のもう一人は、ウエズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼は、その富国ビルの事務所に、私の訪問を受けると、小心らしくあわてた。彼は保全経済会のヤミドルで捕まったり、そのあげくに、国外へ逃げ出してしまった。帰国すると、サンキスト・オレンジのヤミで、逮捕状が待っている。

「オウ、そんなことありません。それよりもワタクシ、まだ、ゲイシャ・ガールみたことないです。アナタたち、案内して下さい」

そんな誘惑をしてくる時計の密輸屋は、日活会館に、堂々と事務所を構えている。

〝租界を彩る人たち〟は、無国籍の白人ばかりではない。それに協力する日本人たちもいるのである。

M・千里(ちさと)という、若い美人の弁護士もいた。銀座の教文館ビルに、事務所を構えた人物のところで、イソ弁(居候弁護士の略で、自分の独立事務所を持っていない)をしていた。独身であ った。