読売梁山泊の記者たち p.304-305 私はまさに胸がついえたのだった

読売梁山泊の記者たち p.304-305 正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。
読売梁山泊の記者たち p.304-305 正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。

あとがき

平成三年四月三十日、読売の務臺光雄・名誉会長が亡くなられた——その通夜か、葬儀だったか、読売新聞の幹部が、祭壇右側にズラリと並んでいるのを見た時、私の胸はヒタとつぶれる想いであった。

正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。

だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。

昭和四十四年十月九日、正力松太郎社主が亡くなった。これは、年齢順で止むを得ないこと。昭和四年八月、務臺さんは、正力さんに請われて、読売に入社した。当時の部数は十七万部。いうなれば〝三流紙〟であった。

朝日、毎日という一流紙に拮抗すべく、正力と務臺は、手を握り合った。「おれといっしょにやろうじゃないか」と、正力にこういわれて、務臺は、その場で決意を固めたのである。(読売百年史)

つまり、正力さんの同志である、務臺さんが健在であったから、私は、「年齢順で止むを得ないこと」と、いう。

だが、昭和二十年代の、読売の興隆期に、名社会部長と謳われて、七年もその地位にあった、原四郎・元副社長が、平成元年二月十五日に亡くなり、いままた、務臺さんまでを失った時、亨さんが、

あのような姿でいることに、私は、まさに胸がついえたのだった。