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最後の事件記者 p.270-271 肉体をスリ減らし家庭を犠牲に

最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。
最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。

〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

『ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ』

『エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?』

『アッ、そうか!』

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の、辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということが、このように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に挨拶をした。

『これからは、お友達として付合いましょう』

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

『これ、どういう意味?』

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

最後の事件記者 p.272-273 裁判が済むまで何も書くなよ。

最後の事件記者 p.272-273 オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ
最後の事件記者 p.272-273 オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

ことに、警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私は、それでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。「記者としての私」を、理解して頂けたからである。この時の気持が、満足であり、爽快であり、去るのが当然だ、という気持なのだ。

保釈出所して、社の人のもとへ挨拶に行った。その人は、私から、記者としての〝汚職〟が出てこなかったことを、よろこんで下さった。もし、〝汚職〟が出たら、その人も困るのであろう。だが、その人はいった。

『ウン、局長や副社長には、手紙で挨拶しておけばいいだろう』——もはや、会う必要はないということだった。

ある先輩は忠告してくれた。

『書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ』——何人にも、この有難い言葉を頂いた。

だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。

文春を読んだ先輩がいった。

『惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ』

『しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか』

友人がいった。

『オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ』

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威であ

る、小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

『文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね』この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

最後の事件記者 p.274-275 護国青年隊が光文社を恐喝

最後の事件記者 p.274-275 おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、一同は息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた
最後の事件記者 p.274-275 おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、一同は息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた

『オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ』

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威であ

る、小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

『文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね』この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

護国青年隊の恐喝

昨三十二年春、私は一人で、護国青年隊事件というのをやった。この右翼くずれの暴力団が、進歩的出版社として有名な、「光文社」のK編集局長をおどかしたということを、私はある右翼人から聞いた。

同社が出版した、「三光」という、支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

私はこの話を聞くと、即座に二つの面からするニュース・バリューを感じた。一つは右翼くずれの暴力団が、いよいよ金に困って、出版言論に干渉しはじめた。これは言論の自由にとって、

重大な問題だということだ。

第二は、その進歩的出版物で売り出した、光文社のベストセラー・メーカーのK氏が、暴力に屈して絶版を約束し、現にその広告の撤回をはじめた、という点である。その辺の売れるならエロでもグロでもといった、商売人根性丸だしの出版屋と違って、「三光」の出版意図を読んでも、信念のあるはずの編集者だからである。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると、契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。

光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。

しかも、相手は電話の受話器を突きつけて、「一一〇番に訴えたらどうだ」ともいったが、何もできなかったという。

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙

ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

最後の事件記者 p.276-277 デスクの面前で破いてすてた

最後の事件記者 p.276-277 『いくら出しました?』 私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』
最後の事件記者 p.276-277 『いくら出しました?』 私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙

ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンバアー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。決して気持の良いところではない。石井隊長に会い、財政部次長という青年にもあって、光文社恐喝の一件をききただした。彼らは右翼としての信念から、「三光」のような本を出すべきでない、と抗議した事実を認めた。そして、K氏は絶版にし、広告を撤回すると約束したという。

『いくら出しました?』

私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。

『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』

ニヤリとして否定する。

こうして、私の特ダネは取材を終り、原稿にされた。ところが、どうしてか紙面にのらない。いろいろとウルサイ問題の起きそうな記事だから、その責任をとりたくないのか、デスク連中は

敬遠してのせようとしない。そんな時に、カンカンガクガク、デスクと論争しても、掲載を迫るような硬骨の記者も、何人かいるが、私は軽べつすると論争などしないたちだ。

新聞記者というピエロ

そうこうして、一週間ほどたつうちに、朝日が書いてしまった。私の狙った観点のうち、言論の自由の侵害の面だけ、記事として取上げたのだ。読売の場合でもそうだったが、光文社という大口の広告スポンサーとして、営業面からの働らきかけがあったのかもしれない。

私としては、K氏のような一流の出版文化人が、暴力に屈した点も書くべきだと思った。この恐いという気特は、警察の保護に対する不信へもつながるのだが、会社の金で済むことなのに、怪我でもしたらバカバカしい、という、インテリ特有の現実的妥協とともに、やはり取上げるべき問題であったと思う。

朝日が特ダネとして書いた日、私は出社すると、デスクの机のところにいって、オクラ(あずかり)になっていた私の原稿をとり出し、デスクの面前でビリビリと破いてすててしまった。

それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本

敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を、原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だから、もう一度、やってくれというのだった。

最後の事件記者 p.278-279 こんな危険な仕事は君でなきゃ

最後の事件記者 p.278-279 数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」
最後の事件記者 p.278-279 数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」

それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本

敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を、原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だから、もう一度、やってくれというのだった。

『じゃ何故、あの原稿を使わなかったのです。朝日より一週間早く提稿しているじゃないですか。それを、朝日の特ダネの後追いをしろというのですか』

私は反撥した。モメる原稿を扱ったデスクは、それがモメた時には責任者になるから、こんな形で、上から命令されれば、欣然としてやるのだ。こんな実情では、意欲的な紙面なんぞ出来やしない。四十歳すぎて、女房子供を抱えたデスクが、身分保証もなければ、どうして火中の栗を拾うであろうか、それも当然のことである。

『君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ』

確かにピエロである。文春十一月号の読者の声欄にあるように、「むきになって、筆者が自分の記者ぶりを述べれば述べるほど、ジャーナリズムで踊ったピエロの姿がにじみ出て、ジャーナリズムとは、あわれな世界だなアと、思わず叫びたくなる」のも、当然な話である。

危険な仕事は、君にしかできないのだ、とオダテられて、その気になって、女房子供のことも忘れてしまう〝新聞記者〟というピエロを、では一体、誰がつくったのだろう。誰がそうさせたのだろう。

それはジャーナリズムという、マンモスに違いない。二十二、三歳の若造二、三人にかこまれて、机を叩かれただけで、意欲的らしさを装った出版物は、直ちに絶版になるという現実が、ジャーナリズムであろう。

ピエロの妻

私はその仕事を引受けた。どうしてもやらなければ、怠業である。従業員就業規則違反である。今、一枚何千円もの原稿料をとる菊村到氏も、活字になりもしないと予想される原稿の、書き直しを命ぜられて、それが拒否できないバカらしさに、社を止めたのであろう。

それから数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社の読者相談部という、苦情処理機関へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」という、彼らの言葉が、私に伝ってきた。

最後の事件記者 p.280-281 金を渡した中村秘書を落城させる

最後の事件記者 p.280-281 妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。
最後の事件記者 p.280-281 妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。

「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」という、彼らの言葉が、私に伝ってきた。

そうこうするうちに、岸首相までが、自民党の幹事長時代に、百万円をタカられたということが判明した。事件は国会でも取上げられたので、警視庁捜査二課でも放っておけずに、後藤主任を担当として捜査を始めた。

私はこの主任に協力して、何とかして金星をあげさせようと努力した。だが、どこの出版社もどこの映画会社も、被害にあっていながら、被害を認めようとしない。被害届がなければ事件として立たない。商売人である出版社や映画会社が、金で済ませるのはまだ良いが、暴力追放をスローガンにした、岸首相の秘書官、現金を飯田橋の本部にとどけた本人までが、どうしても被害を認めない。

私は主任と同行して、甲府の奥に住む元同隊幹部を探し出して、当時の被害状況の参考人調書まで作らせた。その男を口説き落すのに、どんなに苦労もしたことか。金を渡した中村秘書を落城させるため、関係事実を調査しては主任に提供するなど、刑事以上の苦労であった。しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。

『あんたのおかげで、次々と証拠をつきつけて、中村秘書を理責めにしたのさ。しまいには、彼

も額に油汗をかいて、もう少しで被害を認めてくれるところまでいったよ。だけど、逮捕した容疑者ではなく、協力してくれる被害者という立場だろ、むづかしいよ。認めようとしないものを、認めさせようというんだからナ。オレは捜査二課の一主任だ、あんたは外相秘書官だから、上の方へ手を廻して、一警部補のクビを切るぐらいは簡単だろうけれどと、熱と誠意で押したのサ。もう少しのところだったのに、惜しいことしたよ。あんなに協力してくれたのに、カンベンしてくれよ。本当にありがとう』

主任はこういって、私に感謝した。彼の声にならない声は、警視庁の幹部の方に、岸首相の一件はやめろと、政治的圧力がかかったのだとも、受取れるような感じだった。

この事件での、私の捜査協力はついにモノにならなかったが、何回かの記事で、私はともかくとして、妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。「家の付近に、怪しい奴がウロついているから、今日は帰ってこない方がいいわ。奈良旅館へ泊って…」という電話がきて、私は一週間も旅館住いをした。

『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を

聞いていた。